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【完全解説】スティーブ・ウォズニアック「アップルを作った天才エンジニア」

スティーヴ・ウォズニアック / Steve Wozniak

アップルを作った天才エンジニア


概要


生年月日 1950年8月11日
ニックネーム

・ウォズ

・バークレイ・ブルー(ハッキング時代)

・ロッキー・クラーク(学生時代)

学歴

・バークレイ大学エレクトリカル・エンジニア&コンピュータ・サイエンス(理学博士)

・ディアンザカレッジ

・コロラド大学ボルダー校

・ホームステッド高校

職業

・エレクトロニクス・エンジニア

・起業家

・プログラマー

職歴

・アップル(共同創設者、アップルⅠ開発者、アップルⅡ共同開発者)

・CL 9(創設者)

・Wheels of Zeus(創設者)

・リップコード(取締役会員)

・Woz U(創設者)

資産

1億ドル

配偶者

・アリス・ロバートソン(1976-1980年)

・キャンディス・クラーク(1981-1987年)

・スザンヌ・マルカン(1990-2004年)

・ジャネット・ヒル(2008)

パートナー

キャシー・グリフィン

子ども

3人

公式サイト

http://www.woz.org/

ステファン・ゲーリー・“スティーブ”・ウォズニアック(1950年8月11日-)、通称“ウォズ”、または「ウォズの魔法使い」はアメリカの発明家、エレクトロニクス・エンジニア、プログラマー、慈善家、アップル共同創設者。

 

ウォズニアックはアップル共同創設者のスティーブ・ジョブズとともにアップルを設立した1970代から1980代のパーソナルコンピューター革命の開拓者として広く知られている。

 

1975年、ウォズニアックはアップルの設立をきっかけにアップル Ⅰの開発に着手し、翌年ジョブズとウォズニアックはアップル Ⅰの販売をはじめる。

 

1977年に発売して大ヒットとなったアップル Ⅱではおもに回路基盤やハードウェアの設計を担当する。なお、ジョブズは革新的なケース・デザインや営業担当であり、PC本体の設計や組み立てにはほぼ関与していない。ウォズニアックが実際のPC開発者である。ちなみに、独特なスイッチ電源はロッド・ホルトが開発した。

 

コンピュータ・サイエンティストのジャン・ラスキンとともにウォズニアックは、1979年から1981年まではMacintoshのコンセプトにおける初期開発で大きな役割を担っている。

 

しかし、1981年2月に自身が操縦していた軽飛行機の墜落事故による大怪我で休職したあとは、ジョブズがウォズニアックがすすめていたMacintoshのプロジェクトを引き継ぐことになった。

 

その後、アップルに復帰するもエンジニア主導ではなくマーケティング主導のアップルの経営方針に嫌気がさし、1985年に再びアップルから離れる。その後、CL 9社を設立し、1987年に最初のユニバーサル・リモコンを開発・販売した

 

テクノロジー事業以外に、慈善事業に文化事業にも多く関与している。教育事業ではK-12スクールに焦点を当てたテクノロジー事業に携わり、文化事業では音楽とテクノロジーを融合したロックフェスティバル「USフェスティバル」の企画、運営に関わっている。

 

現在のウォズニアックはデータ仮想会社プライマリー・データのチーフ・サイエンティストであり、また形式的にはアップルの社員のままとなっている。

重要ポイント

  • ジョブズとともにアップルを設立
  • Apple IやApple Ⅱの回路基盤の設計と組み立てを担当
  • 慈善事業や文化事業にも多数携わる

略歴


幼少期


スティーブ・ウォズニアックはカリフォルニア州サンノゼで、ミシガン州出身の父フランシス・ヤコブ・"ジェリー"・ウォズニアック(1925-1994)とワシントン州出身の母マーガレット・ルイーズ・ウォズニアック(1923-2014)の間に生まれた。

 

ウォズニアックの出生証明書上の名前は"Stephan Gary Wozniak"だが、母親は"Stephen Gary Wozniak"と綴るつもりだったという。そのため、ウォズニアックは普段は"Stephen"を使っている。ウォズニアックの姓はポーランドやウクライナがルーツのため、ポーランド系移民の子孫であると話しているが、実際のところはあまりよくわかっていない。

 

1968年にホームステッド高校を卒業。1970年代初頭、ブルー・ボックスを制作していたころ、ウォズニアックはフリーキング(電話回線の不正使用)のコミュニティでは「バークレー・ブルー」というHNで知られていた。

 

青年期のウォズニアックはスター・トレックの大ファンでスター・トレックのコンベンションにも参加しており、それが彼のアップルの創業のインスピレーション源となっているという。

キャリア


アップルの起源


1969年、ウォズニアックはコロラド大学ボルダー校に入学したその年に大学のコンピュータ・システムにいたずらメッセージを送信して退学処分となり、ベイエリアへ戻る。この時代に独学でウォズニアックは友人のビル・フェルナンドと「クリーム・ソーダ」コンピュータを設計・開発を行う。

 

その後、デアンザ大学に再入学、1971年にカリフォルニア州バークレー校へ編入する。アップルで仕事に集中する前は、ヒューレット・パッカードに入社し、コンピュータの設計をしており、ヒューレット・パッカード時代にスティーブ・ジョブズと出会う。1971年にホームステッド高校に通っていたフェルナンデスからジョブズを紹介されたという。

 

「私たちは1971年、自分は大学に通っていてジョブズは高校に通っているときに初めて出会った。知り合いフェルナンデスは「スティーブ・ジョブズにあってみないか。彼はエレクトロニクスといたずらが好きなやつだ」とウォズニアックは当時のことについて話している。

 

1973年、ジョブズはカリフォルニア州ロスガトスにあるアーケードゲーム会社のアタリ社で働いていた。ジョブズは当時アーケードビデオゲーム「ブレイクアウト」の回路基板の制作部署にいた。

 

アタリ共同設立者のノーラン・ブッシュネルによれば、ブレイクアウトに必要な部品を減らすごとに100ドルの報酬を与えていた。しかし、ジョブズは回路基盤の設計に関する知識はほとんどなかったので、ウォズニアックに仕事を頼み、チップ数を最小限に抑えたら給料を山分けすると約束したという。

 

このころ、1つのゲーム機に200個程度のICチップを使うのが当たり前になっていたが、ウォズニアックはブリック状のRAMを使用することでチップ数を50まで削減した。

 

これでジョブズは700ドルのボーナスをアタリ社から受け取り、半分の350ドルをウォズニアックに渡したという。しかし、ジョブズは実際は5000ドルのボーナスをもらいピンハネしており、この事実についてウォズニアックは10年後までわからなかったという。しかし、ジョブズが当時それだけのお金を必要としていたらなら、もしウォズアニック当時にその事実を知っていても、ジョブズにお金をわたしただろうと話している。

 

1974年にジョブズがカリフォルニアに戻ってくると、2人は地元パロアルトのコンピュータマニアの集まりであったホームブリュー・コンピュータ・クラブに参加する。このクラブは、以後数十年にわたってマイクロコンピュータ業界の核を担う中心地の1つだった。

 

1975年、ウォズアニックはApple Ⅰコンピュータの設計、開発に着手する。同年6月29日、ウォズアニックは最初のプロトタイプ機を試作し、ホームブリュー・コンピュータ・クラブで文字の表示とサンプルのプログラムを実行させる。このとき歴史上初めてTV画面に表示される文字が家庭用コンピュータで生成された。

アップルの設立と成功


1976年、ウォズニアックはApple Ⅰの最終設計を完成させる。ウォズニアック1人でコンピューターのハードウェアやマザーボード、オペレーティング・システムを設計・組み立てた。

 

ウォズニアックは当初はヒューレット・パッカードで働いているときに自分で設計したものを会社に提案したが、5回も却下されたので、ジョブズが代わりに完全に組み立てたプリント基板の状態でApple Ⅰを販売するアイデアをウォズニアックに持ちかけた。

 

ウォズニアックは当初懐疑的だったが、もしうまくいかなったとしても少なくとも自分たちで会社を設立したことを後世に語り継げるのは誇るべきことだと思い、ジョブズに提案に乗ることにした。

 

2人は会社の設立・運営資金を確保するため、さまざまな所持品を売り払い(ウォズニアックのヒューレット・パッカード計算機やジョブズのフォルクスワーゲン・ヴァンなど)、1,300ドルを調達する。

 

当初はジョブズの寝室で回路基板を組み立てていたが、部屋が狭くなったので作業スペースをジョブズのガレージに移した。サンノゼにあるウォズニアックのアパートは、モニター、電子機器、ウォズニアックが開発したさまざまなコンピュータ・ゲームで溢れかえっていたという。

 

Apple Ⅰは666ドル66セント(ウォズニアックはのちに、当時この数字が獣の数字を意味することを知らず、単純に循環小数が好きで付けたと話している)で販売する。

 

ジョブズとウォズニアックは、最初50台のシステムボードをカリフォルニア州マウンテンビューにポール・テレルが開店したコンピュータ・ショップ「Byte Shop」で販売した。

ブリーフケースをケースにして組み立てられた「アップルⅠ」(1976年)
ブリーフケースをケースにして組み立てられた「アップルⅠ」(1976年)

1976年4月1日、ジョブズとウォズニアックは行政監督者ロナルド・ウェインとともにアップル・コンピュータ(現アップル社)を設立する。

 

ウォズニアックはアップルでの仕事に専念するあめヒューレット・パッカードを退職し、アップルの研究開発担当兼副社長となった。当時ジョブズがオレゴン州のりんご園で働いていたたため「アップル」という社名を付けたと言われる。

 

ウォズニアックのApple Ⅰは最初の市販のマイクロコンピューターのAltair 8800とよく似てたが、内部拡張スロットは搭載されていなかった。

 

Altairには拡張スロットに拡張ボードを増設することでコンピュータ端末に接続してBASICによるプログラミングも行えるカスタマイズ製があったが、それとは対照的にApple Ⅰはホビイスト向けのマシンだった。

 

ウォズニアックが設計したPCには、256バイトのROM、4Kまたは8KバイトのRAM、40桁×24行の文字表示のスクロール式グラフィックが搭載された単一回路基板上に、25ドルのマイクロプロセッサ(MOS 6502)が組み込まれていた。ケース、電源、キーボード、ディスプレイがなくそれらは各ユーザーが用意して組み立てる必要があった。

 

Apple Iの成功後、ウォズニアックはカラーグラフィックの表示可能なBASICプログラミング言語が内蔵された最初のパーソナルコンピュータApple Ⅱの開発をはじめる。

 

アーケードゲームでカラー表示させていたアタリ社の技術をヒントにしてウォズニアックは、1ドルチップでNTSCシステムにカラーを搭載する方法を発明した。

 

Apple Ⅱは、それまでのAltairやIMSAIと異なり、キーボード、CPU、メモリ、画像出力装置、音声出力装置、外部記憶装置とのインタフェース、プログラム用言語などを単一のパッケージとして内蔵した「最初のオールインワンタイプのコンピュータ製品」だった。

 

設計段階でジョブズはApple Ⅱは拡張スロットを2つにするべきだと主張したが、ウォズニアックは8つも望んでいた。激しい議論の末、結局スロットを8つ搭載することになった。

 

1977年に開催された西海岸コンピュータフェアで、ジョブズとウォズニアックはApple Ⅱを披露し、世界で最初に商業的に大成功をおさめた量産型パーソナルコンピュータとなった。

本体上にモニタと2台のフロッピードライブを載せた Apple II
本体上にモニタと2台のフロッピードライブを載せた Apple II

1980年にアップルは販売で得た莫大な利益を公表し、ジョブズとウォズニアックの二人は億万長者となった。しかし、同年リリースされたApple Ⅱの後継機のApple ⅢはApple Ⅱほど成功はしなかった。

 

ウォズニアックによれば、Apple Ⅲは「100%ハードウェアの失敗だ」と話している。この失敗の主な理由はアップルの以前のエンジニアリング主導のプロジェクトとは全く異なるアップルのマーケティング部門により設計されたためであるという。

 

その後、ウォズニアックはMacintosh 128Kの初期設計と開発に取り組み、1981年に飛行機墜落事故に遭遇するまで、社内で大きな影響を与えていた。

 

2013年のインタビューでウォズニアックは、「飛行機墜落事故後、ジョブズがプロジェクトを引き継いだが、もう自分はそこにはいなかった」と話している。

飛行機墜落事故


1981年2月7日、ウォズニアックが操縦していた軽飛行機ビーチクラフト ボナンザ A36TCは、カリフォルニア州スコッツバレーのスカイパーク空港を離陸するやいなや落下。

 

飛行機上昇中に急失速し、滑走路上を跳ね返るように落下。2つのフェンスを突き破り、堤防に墜落着地した。

 

ウォズニアックと3人の乗客(当時の婚約者キャンディス・クラークと彼女の兄弟ジャック・クラークと彼のガールフレンドのジャネット・バロー)は負傷した。

 

ウォズニアックは顔面と頭部に重傷を負い、歯が砕け、また5週間の間、新しく記憶を定着させることができない順行性健忘症で苦しんだ。

 

墜落事故の記憶がなく、入院中に自身の名前がわからなかったり、退院後も墜落事故の記憶がなかった。のちにウォズニアックはApple Ⅱのコンピュータゲームが記憶の回復の手助けとなったと話している。

 

国家運輸安全委員会による調査報告書では、事故原因として、早すぎる離陸とパイロット経験の未熟を挙げた。

USフェスティバル


1982年と1983年の5月、ウォズニアックはプロモーターのビル・グラハムの助力を得て、テクノロジーの進化を祝う「USフェスティバル」の開催と貢献をした。

 

USフェスティバルは、1969年に開催されたヒッピーたちのロックフェスティバル「ウッドストック」の再来を目的としたもので、音楽、コンピュータ、テレビ、人々を結合したロックフェスティバルとテクノロジー博覧会の形相となった。

 

しかし、1982年のフェスティバルで数百万ドルの損失を出したたため、ウォズニアックは1983年のイベントで利益が出る見込みがないならロックフェスティバルへの投資を止め、コンピュータの開発に戻ると話した。

 

その年の後半にウォズニアックはアップルの製品開発に戻り、それ以上のエンジニア以上の役割やアップルでの仕事の動機付け要素を求めないことにした。

1983年のウォズニアック。
1983年のウォズニアック。

アップルから離れる


1983年6月、アップルに復職したウォズアニックはのちにMacintoshやNeXTコンピュータモデルで導入された独自のビット・シリアル・ペリフェラル・バス「Apple Desktop Bus」の設計に携わる。

 

しかし、アップルでの仕事はうまくいっていても、ウォズアニックがしたいことができないと感じはじめていた。たとえばApple IIxの開発だ。ウォズアニックが取り組もうとしていたこApple IIxの開発は、ジョブズによって潰される。Macintoshの発売を迎えていて、Macintosh以外でもソフトウェアが動かせるとなると、Macintoshの売上に影響するという理由からだった。

 

1984年1月にMacintoshが発売されると、アップルは全社一丸となりMacintoshのセールスに集中した。ウォズにはそれが不満だった。ウォズアニックはマーケティングではなくエンジニアを楽しんでいたが、このころになると社内はマーケティングが重要視されるようになり、「起業時のエンジニアリングの楽しみ」を失っていたと話している。

 

さらに、Apple Ⅱは1985年初頭にアップルの売り上げの約85%を占めていたものの、1985年1月の年次総会ではApple Ⅱの部門や従業員について言及がなく、収益の源であるApple IIを大事にしない会社の姿勢を批判した。

 

マーケティング中心でかつ、ほかのエンジニアが会社のマーケティングに従って力を伸ばしているのを見て、ウォズアニックは自身が会社にいる価値がないと感じ、1985年初頭までにウォズアニックは再びアップルを辞職。その後、ウォズアニックは所持株の大半を売り払った。

アップル退社後


アップルを離れたあとウォズニアックはバークレー大学に入学し学位を取得する。すでにウォズニアックのは世間で有名だったので、卒業証書に記載されている名前ロッキー・ラクーン・クラークという名前で入学していた。

 

ウォズニアックがしたかったことの1つは教師が生徒の生活へ関与することが重要な役割を果たす小学生教師だった。結局、ウォズニアックは小学5年生から9年生までの子どもたちのコンピューターの授業を受け持つことになった。

 

ウォズニアックは1985年にCL 9を設立し、1987年に最初のプログラマブル・ユニバーサル・リモコンを開発し市場で販売した。

 

2001年、ウォズニアックはWheels of Zeusを設立、無線GPSテクノロジーで人々の日常生活をもっとシンプルにすることを目的とした会社だった。2002年にはアップルの卒業生のエレン・ハンコック、ギル・アメリオ、マイク・コナー、Wheels of Zeusの共同設立者アレックス・フィールディングらが設立したベンチャー会社リップコード・ネットワークスの取締役会に就任する。

 

また、同年後半にウォズはヒップ・トップコンピュータのメーカーのデンジャー社の取締役会に就任している。

 

2006年にWheels of Zeusは閉鎖し、ウォズニアックは、アップルの卒業生のハンコックやアメリととともにテクノロジー起業を買収し、成長させる持株会社ジャズ・セミコンダクターを設立する。

 

2009年から2014年までウォズニアックはフュージョン・アイオーのチーフ・サイエンティストに就任している。

 

2014年にウォズのは元フュージョン・アイオーの経営者らによって設立されたプライマリー・データのチーフ・サイエンティストに就任している。

 

1985年に現場の従業員としてアップルかは離れたものの、ウォズニアックは決してアップルの従業員登録名簿から自身を除籍することななく、イベントやインタビューを通じてアップル社の宣伝を続けた。現在、ウォズアニックはこの立場でアップルから年間約12万ドルの報酬が支払われていると言われている。また、彼はアップルの株主でもある。

 

2011年10月にスティーブ・ジョブズが亡くなるまでジョブズとは親密な関係を維持していた。しかし、2006年にウォズアニックはジョブズとは昔ほど親密ではなくなっていたと話している。

 

2013年のインタビューで、ウォズアニックは初期Macintoshはジョブズ監督下で失敗しており、うまく行きはじめたのはジョブズがアップルが退社したで、ジョン・スカリーのような人々が立て直したと話している。

 

カリフォルニア州サンノゼにあるサン・ジョーズ・コンベンションセンターで年に一度開催される「シリコンバレー・コミック・コン」は、ウォズアニックが企画と設立に関わっているポップカルチャーとテクノロジーの祭典である。日本でも2016年から「東京・コミック・コン」を開催している。

 

2017年10月、ウォズアニックはオンライン教育テクノロジーサービスWoz Uを設立。2018年12月、Woz Uはアリゾナ州委員会から学校として正式な認可がおりた。

2017年10月に開催されたカンファレンスでのウォズニアック。
2017年10月に開催されたカンファレンスでのウォズニアック。

人工知能に関する見解


2015年3月、ウォズニアックは、当初、数十年以内に人間の知性を上回るという人工知能学の権威レイ・カーツワイルの著作を否定したが、徐々に考え方を変えるようになった。

 

「未来は恐怖であり、人々にとって非常に悪い事態をもたらすとおもう。私たちが人工知能が搭載されたデバイスを使ってすべて面倒できるようになると、最終的には人工知能は自分たちのほうが優れていると判断し、より効率的な社会にするため愚鈍な人々を社会からはじき出すだろう」と話している。

 

ウォズニアックはテクノロジーの進歩を支持しているが、人工知能に関する予見のなかで、矛盾する感覚を生まれはじめたという。

 

2015年6月までに、ウォズニアックは考えを変え、人工知能の活用は人々にとって良いことだと話した。「人工知能は私よりも賢くなり、彼らは私が必要としていることを把握するでしょう。私たちは家族のペットになりたいし、一日中世話をしていたい。数年前、このアイデアを思いつき、私は毎晩ペットの犬にステーキやチキンの餌を与えはじめた」と話している。

 

2016年、ウォズニアックは再び考え方を変え、コンピュータが人間の「直観力」と競争できるようになることに懐疑的で、人工知能が及ぼす危険性に関して心配していないと話した。

 

「コンピュータは論理的な終点を見つけ出すことはできるが、人間の知性の働きとは異なる」また、「もしコンピューターが人工知能になれば、「それらは人間にとって永遠に良いパートナーになれるだろう」と付け加えた。

プライベート


ウォズニアックは現在、カリフォルニア州のロスガトスで暮らしているが、2012年にオーストラリア市民権を取得し、将来はオーストラリアのメルボルンに住みたいと話している。

 

ウォズアックはよく「ウォズ」や「ザ・ウォズ」というニックネームで話題にされることがあり、ほかに「ウォズの魔法使い」や「セカンド・スティーブ(友人スティーブ・ジョブズと長年のビジネスパートナーであり友人であるため)」と呼ばれることもある。

 

ウォズニアックは1979年にフリーメイソンに参加していたが、そのきっかけは当時の妻アリス・ルーベンソンがフリーメイソンと関連のある組織「イースタン・スター」に所属しており、かなりの時間をイースタン・スターの会合に費やしていたためである。ウォズニアックはアリスとの時間をもっと持ちたかったので、自分もフリーメーソンに参加したと話している。

 

ロッジと呼ばれる支部に行き、いろいろなことを習い、時間をかけ、3回の行事にも参加して、第三階級のメーソンになり最終的には幹部にもなった。現在は最初の妻と離婚もしていることもあり、フリーメーソンには関与しておらず、宗教的には無神論者であると話している。

 

「私はフリーメーソンになってみて、それがテック・ギーク性質の自分とまったくあわなかったことがよくわかった。離婚した後は二度とメーソンの集会に参加しながったが、人生において十分に会員に貢献したと思う」と話している。

 

ウォズニアックは1981年から1987年までカヌースラロームの金メダリストのキャンディス・クラークと結婚していた。2人は3人の子どもをもうけており、1番下の子が生まれてから離婚した。

 

その後、2008年にトム・グリーンズ・ハウス・トゥナイトで彼を「宇宙最大のテクノロジーオタク」と表現した女優キャシー・グリフィンと親密な交際があったが、結局ジャネット・ヒルという女性と結婚した。彼女は現在の配偶者である。

 

2006年にジーナ・スミスと共著で自伝『iWoz』を出版。『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーリストに掲載された。なお、この本は2008年に日本語に翻訳され『アップルを創った怪物―もうひとりの創業者』というタイトルで出版されている。

 

ウォズニアックの好きなビデオゲームはゲームボーイの「テトリス」である。また、Apple Ⅱ用ビデオゲーム「サボテージュ」ではハイスコアの記録を保持している。1990年代にウォズニアックは『ニンテンドー・パワー』誌で何度もハイスコアの記録を出したので、自分のスコアは今後掲載されないだろうとおもい、自身の名前のアルファベット逆にしたペンネーム「Evets Kainzow」で、同誌に投稿したともいう。

 

ゲームボーイが発売される前のウォズニアックはは、「グラン・トラック10』というアーケードゲームが好きで、アタリ社で「ブレイクアウト」の初版ハードウェアを開発しながら遊んでいたという。1985年、スティーブ・ジョブズはウォズニアックはのことを「グラン・トラック10中毒者」と呼んだ。

 

ウォズニアックは失顔症の障害があるという。

ウォズニアックと恋愛関係のあったキャシー・グリフィン。2008年
ウォズニアックと恋愛関係のあったキャシー・グリフィン。2008年

取得特許


慈善事業


1990年、ウォズアニックは電子フロンティア財団の設立を支援し、組織化のための初期資金の一部を提供し、創設時の取締役会員となった。また、カリフォルニア州サンノゼにあるテック・イノベーション博物館やサンノゼ子供博物館の設立支援者でもあった。

 

アップルから離れて以来、ウォズアニックはロスガストの地元学区で開催するテクノロジー・プログラムのために現場のテクニカルサポートを提供するのに必要な資金と同じ額の資金を提供してきた。

 

現在はおもに教育支援と慈善事業に注力している。