スティーブ・ジョブズ / Steve Jobs
PCに革命を起こしたアップル創業者

概要
生年月日 | 1955年2月24日(アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ) |
死没月日 | 2011年10月5日(56歳)(アメリカ合衆国カリフォルニア州パロアルト) |
死因 | 膵臓がん |
埋葬地 | アルタ・メサ記念公園 |
国籍 | アメリカ |
学歴 |
・ホームステッド高等学校 ・リード大学中退 |
職歴 |
・アップル(共同設立者、CEO、会長、取締役会員) ・ピクサー(主要株主、会長) ・NeXT(設立者、会長、CEO) ・ウォルト・ディズニー・カンパーニー(取締役会員) |
家族 |
・ローレン・パウエル(配偶者、1991年結婚) ・長男リード(1991年) ・長女エリン(1995年) ・次女エヴァ(1998年)詳細は「ジョブズと家族」を参照。 |
パートナー |
クリサン・ブレナン(ジョブズとの間に非嫡出子の長女リサ・ブレナン・ジョブズ) |
親族 |
・モナ・シンプソン(実妹) ・リサ・ブレナン・ジョブズ(ブレナンとの間の非嫡出子) |
宗教 |
禅 |
関連人物 |
スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(1955年2月24-2011年10月5日)はアメリカの情報技術ビジネスの大物実業家、発明家。アップルCEO、会長、共同設立者。ピクサーCEO、主要株主。ピクサー社買収後のウォルト・ディズニー・カンパニー取締役会会員。NeXT会長、CEO、設立者。
ジョブズは一般的に1970年代から80年代のマイクロコンピュータ革命の開拓者と認知されており、またスティーブ・ウォズニアックとともにアップルの共同創設者として知られている。
ジョブズ公式の自伝作家ウォルター・アイザックソンは「完璧に対する情熱を持つ起業家で、6つの産業(パソコン、アニメ映画、音楽、携帯電話、タブレット・コンピューティングおよびデジタル出版)を劇的に変革を起こした」とジョブズを簡潔に説明している。
ジョブズといえばカウンター・カルチャーのライフスタイルや哲学である。これは生まれ育ったサンフランシスコ・ベイエリアの風土との関係が深い。ジョブズはリード大学に進学するが中退し、その後1974年に自己啓発と禅の修行を目的にインド旅行をする。FBIのレポートによれば、ジョブズは大学滞在時にマリファナやLSDなど非合法ドラッグを使用しており、この文化がのちに大きな影響を与えた。ジョブズは「LSDは最も重要なことの2つか3の中の1つだ」とレポーターに語ったこともある。
また、ジョブズといえばミニマリズムの思想であるが、そこにはジョブズが養子として出された複雑な家庭環境や近所の低所得者向けでありながらシンプル・モダンで機能的な家を提供していた不動産屋、そしてカウンター・カルチャーで流行した禅の影響などがある。
1976年にウォズニアックとともにアップルを共同で設立し、Apple Ⅰを開発・販売。後継機のアップル Ⅱは、初めて最も成功した量産型パーソナルコンピューターとなり、二人は莫大な富と名声を獲得した。
1979年にゼロックスのパロアルト研究所でマウス操作とグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)で動作可能なコンピュータ「アルト」を視察して影響を受け、Apple Lisaの開発に着手し、1983年にApple Lisaを発売するが失敗。
しかし、1984年にMacintoshを発売して大成功をおさめる。MacintoshはGUIとマウスを利用した最初の量産型消費者向けコンピュータであるのに加え、1985年に発売したベクタ形式が特徴の最初のレーザープリンター機の「レーザーライター」とともにDTP産業で急激にシェアを伸ばした。
しかし、ジョブズは社内での立ち振舞いが原因で1985年にアップルを解雇される。アップルを退社したジョブズは、数人のメンバーらと高等教育やビジネス市場に向けに特化したコンピューター・プラットフォームの開発会社NeXTを設立する。
1986年にジョージ・ルーカスの会社ルーカスフィルムのコンピューターグラフィック部から派生した組織をジョブズは1,000万ドルで買収して、ピクサーを設立し、VFX(視覚効果)産業の発展に貢献した。
1997年にアップルがNeXTを買収し、ジョブズはアップルに復帰。その後、2000年に再びCEOに就く。倒産の危機に瀕していたアップルをティム・クックと2人で収益性の改善に努める。
同年、“Think diffrent”という広告キャンペーンを打ち、ジョブズは主要アップル製品のインダストリアル・デザイン・チーフとなるジョナサン・アイブと親密な関係を築きあげ、デザインに対しても大きな影響力を与えた。
現在のMacのOSで、iMac、iTunes、iPod、iTunes Store、iPhone、App Store、iPad、Mac OSに利用されているMac OS Xシリーズは、NeXTのNeXTSTEPのユーザー・インタフェースの特徴を多くひき継いだものである。
2004年に膵臓がんの診断がくだされると、現場から退き、ティム・クックを後継CEOに任命する。2011年10月5日、膵臓がんに伴う呼吸不全で死去。
重要ポイント
- アップルの創業設立者
- 量産型パーソナルコンピュータ業界に革命を起こした
- プロダクトに対するカウンター・カルチャー(禅、LSD、ヒッピー文化など)の影響が大きい
略歴
家系
ジョブズの両親と家系について
ジョブズの養父であるポール・ラインホルド・ジョブズ(1922-1993)は、ウェスコシン州のジャーマンタウンのカルヴァン派の家庭で生まれ育った。ポールの父親は農業を経営していてアルコール依存症で暴力的だったという。
ポールの若いころの外見はジェームズ・ディーンによく似ている。身体にタトゥーが入っており、高校を中退している。1930年代は仕事の都合で数年間、アメリカ合衆国中西部全体を旅していたという。ポールは最終的に機械工としてアメリカ沿岸警備隊に就職する。
第二次大戦後、1946年にポールはアメリカ沿岸警備隊をやめ、サンフランシスコに移動。そこで妻となるクララ・ハゴピアン(1924-1986)と出会い、10日後に結婚したという。クララはアルメニア移民の娘でサンフランシスコで育ち、すでに結婚していたが、夫は第二次世界大戦で戦死して未亡人の状態だったという。
1952年に二人はサンフランシスコのサンセット地区に移動。ポールは信販会社の「レポマン」となった。また趣味としてポールは中古車を改造していた。クララは子宮外妊娠を経験したたため子どもには恵まれず、二人は1955年ごろに養子を迎えようとしていた。
スティーブ・ジョブズの実親であるアブドゥルファター・ジョン・ジャンダーリ(1931年生まれ)はシリアのホムス出身でムスリムの家庭で育った。ジャンダーリの父は一代でミリオネアになった実業家で大学には通っていない。母親は伝統的な専業主婦だった。
ベイルート・アメリカン大学留学中、彼は過激な政治活動家で、そのため刑務所で過ごしたこともあった。ジャンダーリは政治学の勉強をしていたが、結局、経済学と政治家学を勉強することになった。
ベイルート・アメリカン大学卒業後、米国ウィスコンシン大学政治学科でティーチングアシスタントをしているときに、ジョブズの実母であるジョアン・シーブルと出会う。親はドイツとスイスのカトリックの家系でウィスコンシンで農場を営んでいた。
博士課程でジャンダーリはシーブルにティーチングアシスタントをしていたが、二人は同じ歳だった。シーブルの両親は娘が好きな男がカトリックではないため交際に強く反対。付き合うと娘を勘当するとまで脅迫もした。
シーブルは1954年に妊娠。二人はシリアのホムスのジャンダーリの家族と夏を過ごした。ジャンダーリは「ジョアンナとはとても愛しあっていたが、残念なことに彼女の父親は暴君で、シリア出身の私との結婚を許さなかった。それで彼女は私に子どもを養子縁組に出してほしいといった」と話している。
当時、婚外子やシングルマザーに対する差別意識が強く、また中絶が違法で危険が高かっただったというのも大きな理由であるとされている。1954年のアメリカでは、養子縁組という選択のみしか女性には残されていなかった。


幼少期
幼少時代から中学生まで
スティーブ・ジョブズは1955年2月24日サンフランシスコで、ウィスコンシン州のドイツ系移民の娘でアメリカ人のジョアン・シーブルと、シリアから来たイスラム教徒の留学生アブドゥルファター・ジョン・ジャンダーリとの間に生まれた。
ジョアンの父が、ムスリムのシリア人であるアブドゥルファターとの結婚を認めなかったため、生後、すぐにスティーブは養子に出されることになる。養子縁組においてジョブズを引き取る側に対するシーブルの条件は「カトリックであること、大学を出ていること、裕福であること」だった。当初は弁護士の家庭に引き取られる予定だったが、女の子がいいと断られてしまう。
そして、ポール・ジョブズとクララ・ジョブズに引き取られることになる。しかし、ポールもクララも大卒ではなかったため、シーブルは書類へのサインを拒否。最終的にお金を貯めて子どもを必ず大学にやると養親や約束することで承諾することになった。
ポールとクララは1957年にジョブズの妹パトリシアを養子にし、家族は1961年にカリフォルニアのマウンテンビューに移っている。
生まれてすぐに「捨てられ」、同時に養子縁組として「選ばれた」ジョブズの境遇は、その後のジョブズの「捨てる」と「独立心」の哲学となり個性となる。
幼少の頃スティーブは、機械工で壊れた車を引き取っては修理し、それを売る養父のポールから機械や車について手ほどきを受ける。スティーブがエレクトロニクスに触れたのは、父親の車の改造趣味を通じてだった。
スティーブの実家のあたりは、安価な住宅を低所得者に数多く販売していたアイクラー・ホームズの住宅が数多く建てられている場所で、そのこぎれいなデザインとシンプルなセンスに多大なスティーブは影響を受ける。
10歳までにジョブズにエレクトロニクスに入れ込み、近所に住んでいる多くのエンジニアと仲良くなった。しかし、同世代の子どもと仲良くなるのは難しく、クラスメートから“一匹狼”と見られていた。
小学4年生が終わるころ、ジョブズは知能検査を受け、高校2年生レベルの成績を上げる。この結果、ジョブズの知能が並外れていることがわかり、1年飛び級で進学する。しかし飛び級はつらい経験となり、ひとつ年上の子どものなかに放り込まれたジョブズは、孤立し、いじめられることも多く、7年生のなかばで転校することになる。また13歳ころからジョブズは教会に通うのをやめるようになる。
1967年にジョブズの一家は、カリフォルニア州ロスアルトスのクリストドライブにあるスリーベッドルーム付きの家に移る。カリフォルニアのクパチーノ連合学区で最も優等な地域だった。また、マウンテンビューの家のときよりも周囲に多くのエンジニア家庭が住んでいた。クパチーノ中学の同級生にエレクトロニクス友達のビル・フェルナンデスがおり、彼は最初の友達となった。
フェルナンデスは「8年生はみんな風代わりなジョブズが嫌いだったけど、自分1人だけは彼の数少ない味方だった」と話している。フェルナンデスはのちにジョブズに18歳のエレクトロニクス友達でアップル共同設立者のスティーブ・ウォズニアックを紹介することになる。ウォズニアックはフェルナンデスの近所に住んでいたのだ。
1968年半ば、ジョブズが13歳のときヒューレット・パッカードの工場で組み立てラインのアルバイトをする。CEOへ電話をして仕事に就いたという。
中学を卒業後、スティーブはホームステッド・ハイスクールに進学。1960年代末のカウンターカルチャーにどっぷりはまった年上の友だちが多く、ちょうどその頃はギークの世界(オタク)とヒッピーの世界が重なろうとしていた時代だった。
そんな時期に過ごしたジョブズは、数学、科学、エレクトロニクス、アマチュア無線、LSD、カウンターカルチャーに関心を持ち始める。また高校1年が終わったころからHP(ヒューレッド・パッカード)の工場でアルバイトを始める。高校2年から3年にかけてマリファナをはじめる。
「自分はエレクトロニクスが大好きなギークであると同時に、文学やクリエティブなことが好きな人文系の人間らしい」と思うようになる。音楽をよく聞くようになり、シェイクスピアやプラトンなど、哲学や芸術にも関心を持ち始めた。当時は『リア王』が大好きだった。ほかにメルビルの『白鯨』やディラン・トマスの詩もお気に入りだった。

天才エンジニア“ウォズ”との出会い
1971年、アップルの共同設立者の一人で、 Apple IおよびApple IIをほぼ独力で開発した主要エンジニアとなるスティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会う。
エレクトロニクスの知識に関してジョブズなど足元にもおよばないほどウォズは詳しく、ジョブズの専門知識を伸ばしてくれる人物だった。
ジョブズはすぐに好きになった。またウォズはジョブズと同じくコンピュータに対する興味のほか、音楽に対する情熱も共通していた。ジョブズがボブ・ディランに興味を持つようになったのもウォズのおかげだった。
1971年、ウォズとジョブズの協力体制としてその後に定着する事件が起きる。「ブルーボックス」事件だ。ジョブズとウォズは、長距離電話をタダでかける機械「ブルーボックス」を開発することに成功し、それを販売して利益を得た。アップル創業時の役割分担はこのときはじまったとジョブズは証言している。
ブルーボックス開発のきっかけとなったのは、「エスクァイア」誌1971年10月号に掲載されていた1つの記事だ。ブルー・ボックスと呼ばれる装置を使って、無料で長距離電話をかけることが可能になるというハッカーや電話フリークのための記事をウォズが見つけた。
ジョブズとウォズはブルーボックスを自分たちで作ることにした。2人は、AT&T(ベル社)の交換器が利用する周波数やトーンが書かれている資料をスタンフォード大学線形加速器センターで探し出し、ダイオードとトランジスタなどブルーボックスの部品を購入し、絶対音感を持つ音楽科の学生に手伝ってもらいつつ、ウォズがブルーボックスを製作した。
最初は趣味で作って、ヘンリー・キッシンジャーのふりをしてバチカン宮殿のローマ法王へいたずら電話をしたりして、遊んでいただけだったが、ジョブズは売ればビジネスになると気づく。ブルーボックスの材料費は40ドル。ジョブズはこれを150ドルで販売することにした。明らかにフリーキング(不正行為)だ。バイヤーとして、ウォズは「バークレー・ブルー」、ジョブズは「オーフ・トバーク」というハンドルネームを使っていた。
「ブルーボックスがなければアップルもなかったと思う。それは間違いない。この経験からウォズも僕も協力することを学んだし、技術的な問題を解決し、製品化できるという自信を得たんだ」(ジョブズ)。
後に影響を与えたサブカルチャーとの出会い
1972年、ホームステッド・ハイスクールを卒業したジョブズは、ロアルトス山の小屋でアニメーション映画をいっしょに作っていた1歳年下のクリスアン・ブレナンと暮らし始める。この頃からLSDに親しむようになる。
1972年秋に、自由を重んじる校風とヒッピー的なライフスタイルで知られるリベラルアーツの私立大学リード・カレッジに入学。ジョブズは精神世界や悟りに関するさまざまな本に影響を受ける。とくに、サイケデリックドラッグ(幻覚剤)の作用と瞑想についてババ・ラム・ダスが書いたサブカルチャー誌『ビー・ヒア・ナウ』の影響を強く受ける。ダニエル・コトケとそのガールフレンド。
エリザベス・ホームズ、それにロバート・フリードランドらと行動するようになり、クリシュナ教寺院における愛の祭典に参加したり、禅センターが無料で提供するベジタリアン料理を食べにいったりした。
特に禅にはまり図書館に通って、禅に関する本をひたすら読むようになる。鈴木俊隆の『禅へのいざない』、パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』、リチャード・モーリス・バックの『宇宙意識』、チョギャム・トウルンパ・リンポチェの『タントラへの道-精神の物質主義を断ち切って』などだ。
エリザベスの部屋の天井裏に瞑想室を作った。ジョブズにとって、禅宗を中心とする東洋思想に傾倒したのは一時的なものではなかった。ギリギリまでそぎ落としてミニマリスト的な美を追求するのちのアップルの姿勢は、皆、禅から来たものだった。
またジョブズは仏教にも強い影響を受け、抽象的思考や論理的分析よりも直感的な理解や意識が重要だと気づいた。ただ気性が激しかったため、解脱して涅槃にいたることはできなかった。心の安寧も、他人に対する厳しい姿勢も柔らぐことはなく、もっぱら美術的感覚のほうに東洋思想はジョブズに影響を与えた。
もう一冊、大学1年生のジョブズに大きな影響を与えた本がフランシス・ムア・ラッペの『小さな惑星の緑の食卓-現代人のライフ・スタイルを変える新食物読本』だ。この本で菜食主義に影響を受け、浄化や断食などの食事習慣を覚え、ベジタリアンとなった。
大学の授業ではカリグラフィーに興味をもった。ジョブズはデザインや外観などの美術的感覚を大事にするが、その美術的感覚はカリグラフィーの授業で身につけた。カリグラフィーを学ばなければ、マックに複数種類のフォントが搭載されることもなくなかったという。
菜食主義、禅宗、瞑想、スピリチュアリティ、LSD、ロック、当時大学ではやっていたサブカルチャーの象徴となっていたさまざまなのものがジョブズのなかでひとつに交じり合っていた。これらのものがのちにエレクトロニクスギークと美術一体となって花開く日が来るわけだ。
1974-1985
「アタリ」社で学んだルール改変とシンプルな哲学
ジョブズは18ヶ月リード大学で過ごした後、1974年2月、ロスアルトスの実家に戻り仕事を探す。その頃人気だったビデオゲームメーカーのアタリ社を訪問し「雇ってくれるまで帰らない」と宣言する。こうして50人しかいないアタリの社員のひとりとなった。時給5ドルの技術作業員だった。
この頃から失敬な人ジョブズの評価は広がっていた。基本的にひとりで仕事をしていたにもかかわらず、たまに会うと、誰彼かまわず「大ばか野郎」とこき下ろしたからだ。
ジョブズはアタリで多くを学ぶ。ゲームの改良にも没頭し、ルールを自分に都合よく変えてしまうという技をアタリ社で学んだ。
同年、ジョブズはインドを旅行する。アシュラムと呼ばれるヒンズー教の修行所で、ラリー・ブリリアントという人物と知り合いになる。天然痘撲滅を目指して活動する学者で、のちにGoogleの事前事業部門とスコール財団を統括するようになる人物だ。ジョブズとブリリアントの付き合いはそれからずっと続く。
インドからロスアルトスに戻るとジョブズは本格的に自分探しを始める。毎朝、毎晩、瞑想を行い、禅を勉強し、その途中でときどき、スタンフォード大学へ物理学や工学の授業も聴講に行った。インドへの度はのちのちまで自分に影響を与えたとジョブズは語っている。
ジョブズはロスアルトス近郊で鈴木俊隆老師と千野弘文老師に出会う。ジョブズはここで熱心に学ぶ。弘文老師に出家の相談をしたが、事業の世界で仕事をしつつ、スピリチュアルな世界とつながりを保つことは可能だから出家はやめたほうがよいと諭される。ふたりの関係はその後も長く、続き、17年後には弘文老師がジョブズの結婚式を執り行うなどしている。
1975年初頭、アタリ社にジョブズは戻る。ここでチップ数を削減してゲームを作る工夫を始める。チップ数を少なくできればボーナスが出ることもあった。ここでジョブズはチップを削減するため、ゲーム内容をできるだけシンプルにする術を身につける。
しかし、ジョブズは回路基盤の設計に関する知識はほとんどなかったので、ウォズニアックに頼んで、チップ数を最小限に抑えたら給料を山分けすると約束する。これでジョブズは700ドルのボーナスをアタリ社から受け取り、半分の350ドルをウォズニアックに渡したという。しかし、当時ジョブズはピンハネしており実際は5000ドルのボーナスをもらっており、この事実についてウォズニアックは10年後までわからなかった。
アップルⅠの開発
1975年3月5日、ゴードン・フレンチとフレッド・ムーアが立ち上げたクラブの第一会合に参加したウォズが、マイクロプロセッサーの仕様書を見たきっかけにパーソナルコンピューターのビジョンを思いつく。
そのとき、のちのアップルⅠとなるスケッチを描く。その後、ウォズは開発を進め、1975年6月29日にパーソナルコンピューターができあがる。
このマシンにジョブズは感動し、部品調達の手伝いを始める。ジョブズはあちこち電話してインテルから何個かただで手に入れたりした。ジョブズとウォズの分業はこの頃から始まり、ジョブズが外部のやり取りやらビジネス戦略を練るなどマネジメントに力を入れ、ウォズは開発に集中するようになった。
「ぼくがすごいものを設計するたび、それでお金を儲ける方法をスティーブが見つけてくれる」
自分ひとりだったらコンピュータを売ることはなかったとウォズは言う。
ジョブズは事業を始めるに当たって名前を考えた。菜食主義者を実践していて、また当時リンゴ農園に勤めており、元気がよくて楽しそうな名前ということで「アップル」にしたという。また、ジョブズとウォズのほかに友達のエンジニアのロン・ウェインを誘う。作業の中心となったのはロスアルトスのジョブズの実家だった。
アップルⅠが雑誌ではじめて特集されたのはインターフェース誌の1976年7月号だった。1976年9月の第1回パーソナルコンピュータ・フェスティバルに参加。開催場所はニュージャージー州アトランティックシティーのホテル。アップルⅠと新しいマシンのプロトタイプを持ち込んだ。
このときジョブズはパーソナルコンピューターは、すべてが用意され、パッケージとなったコンピュータを作る必要があると感じる。自作好きのコンピュータマニアたちを狙うのではなく、購入したらすぐに使えるマシンを欲する人達を狙わないとだめだと感じたという。
アップルⅡで世界的名声を獲得する
フェスティバル後、ジョブズらはアップルⅡの開発を始める。アップルⅡからジョブズはデザインに注意を払うようになる。
灰色をした不細工な金属ケースの他社製品と一線を画すものでなければならないと思い、ジェリー・マノックにデザインを依頼。数週間後、注型発泡という方法で作られたシンプルなプラスチックケースが届き、ジョブズは満足する。
アップルⅡの開発にあたって、ウォズはヒューレット・パッカードを退社。またマーケティングと物流がわかり、事業計画が策定できるマイク・マークラを仲間にくわえる。マークラはジョブズと同じく「マニア以外まで市場を広げることが大事」だと考えていた。マークラはジョブズにマーケティングや営業の重要性を教えこんだ。
「マイクは本当に世話になった。彼の価値観は僕とよく似ていたよ。その彼が強調していたのは、金儲けを目的に会社を興してはならないという点だ。真に目標とすべきは、自分が信じるなにかを生み出すこと、長続きする会社を作ることだというんだ」
1977年1月3日、新法人のアップルコンピュータを設立。4月にサンフランシスコで開催される第一回ウエストコーストコンピュータフェアでアップルⅡを披露。ベージュ色の優美なケースに入ったアップルⅡは、他者のごつすぎる金属ケースに入ったマシンやむきだしのボードと比較して、フレンドリーな雰囲気を醸し出していた。
アップルⅡは大成功し、その後16年間、さまざまなモデルが総計600万台も販売される。パーソナルコンピュータという産業を興した立役者となった。
ジョブズが23歳のとき、1978年5月17日、ブレナンとの間に女の子が生まれる。リサ・ニコール・ブレナンという名前を付ける。ジョブズとブレナンは結婚する気はなかった。名前をつけるとジョブズは、ブレナンを置いてさっさとアップルの仕事に戻る。
アップルⅡのおかげでアップルは、一気にトップ企業にまで登りつめた。販売台数は1977年の2500台が1981年には21万台となった。
ジョブズは1978年、23歳で億万長者となった。24歳で1000万ドルの資産を築き、25歳で1億ドルの資産を築いた。また「フォーブス」誌でアメリカで最も裕福な人々の1人として紹介され、また遺産を受け継ぐことなく1人で富を手に入れた若者として紹介された。
1978年にアップルはCEOにナショナルセミコンダクターからマイク・スコットの就任を依頼。1983年にジョブズはペプシ・コーラからジョン・スカリーをアップルのCEOに誘い込み「残りの人生を砂糖水を売って過ごすか、それとも世界を変革したいか」と尋ねた。
服装について
ジョブズはいつもイッセイ・ミヤケブランドの黒いタートルネックとリーバイス501のブルーのジーンズ、ニューバランス991のスニーカーを身に着けていた。ジョブズによれば服装の選択について、ブラウン大学の応用数学教授スチュアート・ジェマンに影響を受けたと話している。ジョブズは自身の伝記作家ウォルター・アイザックソンに「日々の活動における利便性と自身のシグニチャースタイルを伝えための両方のメリットから、自分自身のユニフォームとするにいたった」と話している。
ブレナンとの別れとリサの誕生
ブレナンとジョブズの関係はアップルが成長するにつれ悪化していった。しかしこの頃、ちょうどブレナンは妊娠しており、その子どもの父親はジョブズである事実に影を落とした。
ジョブズは彼女と妊娠に関する話をすることを拒んだ。ブレナン自身はどうすればいいか困惑した。結局、ブレナンはアップルをやめる。ジョブズは「もし子どもを養子に出すなら、後悔するぞ」といいまた、「決してお前を援助しない」と話したという。
さらに、この頃からジョブズは「ブレナンは誰とでも寝る女だ」というようなことを周囲に吹聴し、ブレナンの腹の中の子どもは自分の子どもではないことをほのめかしていた。
その後、ブレナンは生活保護とクリーニングハウスで生計を立てることになった。ブレナンはときどきジョブズに生活費を催促したが、ジョブズは常に拒んだという。ブレナンは可能な限り妊娠を隠し、さまざまな家に移り住み、禅の瞑想を続けた。
ジョブズが23歳のとき、ブレナンは1978年5月17日、リサ・ブレナンを産んだ。しかしジョブズはその娘のことを認知せず、後には裁判になった。リサが2歳になった時、ジョブズはようやくリサが自分の娘であることを認め、その教育について援助することを認めた。
Apple LisaでGUIとマウスの登場
アップルⅡのおかげでアップルは、一気にトップ企業にまで登りつめた。販売台数は1977年の2500台が1981年には21万台となった。
法人化した1977年1月、アップルコンピュータの価値は5309ドルだった。それから4年もたたずにアップルは株式を公開する。1980年12月、アップルの市場価値は17億9000万ドルとなった。
ジョブズは1978年、23歳で億万長者となった。24歳で1000万ドルの資産を築き、25歳で1億ドルの資産を築いた。また「フォーブス」誌でアメリカで最も裕福な人々の1人として紹介され、また遺産を受け継ぐことなく1人で富を手に入れた若者として紹介された。
1978年にアップルはCEOにナショナルセミコンダクターからマイク・スコットの就任を依頼。
1978年、Apple Ⅱを打ち破る次世代パーソナルコンピュータとして、Lisa(リサ)・プロジェクトが立ち上げられた。
Lisa開発のためジョブズは1979年12月にゼロックスPARCへ見学に出かける。ゼロックスPARCでは、ビットマップとGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)を使う「アルト(Alto)」というコンピュータを開発していた。ジョブズをはじめとするアップル勢は、このPARCのGUI構造を見ることが目的だった。
当時ゼロックスはこの技術を商業化させておらず、アップルがGUIというアイデアを奪い、開発中のLisaに改善したかたちで導入することになる。アップルのゼロックスPARC見学は、往々にして業界史上最大級の強盗事件だとされ、ジョブズ自身お誇らしげに認めている。
しかし、ジョブズは、会社内での独断専行の立ち居振舞いから、社長のスコットによって、Lisaプロジェクトのメンバーから外されてしまう。行き場を失ったジョブズは、1981年、突如としてMacintoshプロジェクトに参画を宣言する。
量産型パーソナルコンピュータ「Macintosh」
はじめてジョブズを表紙に大きく取り上げたのは『インク』誌の1981年10月号だった。「ビジネスを大きく変えた男」という見出しで、紹介された。
1982年2月には『タイム』誌が若手アントレプレナーの特集でジョブズを取り上げる。記事本文でジョブズは「事実上、独力でパーソナルコンピュータ業界を創出した」と紹介された。
1982年にジョブズはサンレモの政治的に進歩的と評判のマンハッタンビルディングのツートップフロアのアパートを購入。彼はそこにすまなかったが、2003年に建築家のイオ・ミン・ペイに頼み、数年かけてリノベーティングを行ったあと、バンド「U2」のボーカルのボーノに売却した。
ジョブズと対立し、関係が悪化していたスコットが、1981年マークラに解雇された。ジョブズはスコットの後任として、1983年にジョブズはペプシ・コーラからジョン・スカリーをアップルのCEOに誘い「残りの人生を砂糖水を売って過ごすか、それとも世界を変革したいか」と誘った。熱烈なジョブズのラブコールもあり、1983年、ジョン・スカリーがアップルの社長の座に就いた。
1984年にジョブズは広大な土地とジャッキングハウスを購入し、そこに十数年住む。その後、2000年まで数年間リースして、2004年により小さな現代的なスタイルに建てなおすために取り壊しの許可をウッドサイドから得た。ジョブズが死去する数カ月前、2011年に建物は取り壊された。
1984年にアップルはMacintoshを開発。Lisaを基盤にしたもので翌年アップルは「1984」と題したスーパーポールのTVコマーシャルで放映する。その晩、全国ネットの3大テレビ局すべてと50の地方局がこの広告をニュースでとりあげた。
1984年1月24日に開催した年に一度の株主総会で感情的なジョブズはMacintoshをプレゼンテーションを行い、現場は熱狂的な雰囲気に包まれた。開発メンバーの1人アンディ・ハーツフェルドは「大混乱」とそのときの様子を説明した。
熱狂的に受け入れられたにも関わらず、高価なマッキントッシュの売上げはいまいちだった。1985年に販売を開始した後すぐに、当時成長にのっていたマイクロソフトのビル・ゲイツが、Macオペレーティングシステムソフトウェアのライセンスを与えていたにもかからず、マックでのアプリ開発を中止すると脅迫してきた。マイクロソフトはWindowsと呼ばれるDOSを利用できるGUIを開発していた。
1985-1997
今日のmacOSやiOSの基礎「NeXT」
アップル株の売却で得た700万ドルの資金とととにアップルを退社したあと、ジョブズは1985年にジョブズはNeXT社を設立。高等教育やビジネス市場向けのワークステーションを開発・製造を目的とした会社だった。
しかし、1年後に退職金が尽きるとベンチャー・キャピタルに助けを求める。結局、投資を引き受けてくれたのは、かねてからジョブズに関心を抱いていた億万長者のロス・ペローだった。
NeXT社はジョブズの復活イベントと世界中でみなされ、1988年10月12日水曜日、カリフォルニア州サンフランシスコのデービス・シンフォニーホールで記念イベントを開催。
NeXTワークステーションは1990年に初めて販売された。当時の価格は9999ドル。アップル・リサのようにNeXTワークステーションは技術的に進歩したものだが、コスト高で教育機関に導入されることはなかった。
ジョブズは『Mach』や『デジタルシグナルプロセッサ』や備付けイーサネットポートなどの革新的で実験的な新技術を強調して、金融、科学、大学コミュニティに製品をプレゼンテーション、販売した。ティム・バーナーズ=リーは欧州原子核研究機構でNeXTコンピュータ上でWWW(World Wide Web)を発明した。
改良された第二世代NeXTcubeは1990年に発売された。ジョブズは初め"インターパーソナル”コンピュータで、パーソナルコンピュータにとってかわるものだと説明した。革新的なNeXTMailマルチメディア電子メールシステムで、初めて電子メールに音声、画像、動画を添付できるようにした。「インターパーソナル・コンピューティングは人のコミュニケーションやグループワークに革新をもたらす」とジョブズは説明。
マグネシウム合金ケースの導入からわかるようにNeXTのデザインに脅迫的観念を持っていたが、このためハードウェア部門はかなり苦労を強いられた。1993年までに販売された数は5万台で商業的には失敗に終わった。
ピクサーを設立してアニメーション業界に進出
1986年、ジョブズはルーカスフィルムのコンピュータ・グラフィック部門のスピンアウトした1グラフィック・グループ(のちのピクサー)に1000万ドルの資金提供をし、そのうち500万ドルは技術権利としてルーカスフィルムに支払われた。
デイズニーとのパートナーシップでピクサーが製作した最初の映画、『トイ・ストリー』(1995年)は、ジョブズががエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされ、公開と同時にスタジオに対して称賛と名声を得た。スティーブ・ジョブズは、コンピュータ・アニメーションの未来を形作る上で極めて重要な役割を果たした。
その後、15年間、ピクサー製作チーフジョン・ラセターのもと同社は膨大な興行収益を上げた。ピクサーが製作した映画には『バグズ・ライフ』(1998年)、『トイ・ストーリー2』(1999年)、『モンスターズ・インク』(2001年)、『ファンディング・ネモ』(2003年)、『Mr.インクレディブル』(2004年)、『カーズ』(2006年)、『レミーのおいしいレストラン』(2007年)、『ウォーリー』(2008年)、『カールじいさんの空飛ぶ家』(2009年)、『トイ・ストーリー3』(2010年)などがある。
2003年と2004年に、ディズニーとのピクサーの契約が終了すると、ジョブズとディズニーのチーフ・エグゼクティブのマイケル・アイズナーは再契約交渉を行ったが、決裂に終わった。2004年初頭、ジョブズはディズニーとの契約終了後の映画配給となる新たなパートナーをピクサーは探していると告知した。
2005年10月、ボブ・アイガーがディズニーでアイズナーと交代すると、アイガーは素早くジョブズやピクサーとの関係修復に乗り出した。2006年1月24日、ジョブズとアイガーは、ディズニーが74億ドル相当のピクサー株を購入することで合意したと発表した。契約終了時にはジョブズは同社の株式約7%を保有するウォルト・ディズニー・カンパニー最大の株主となった。なお、ジョブズ死後、彼のディズニー株はローレン・パウエル・ジョブズによってスティーブン・P・ジョブズ信託へ移された。
ジョブズと家族
元恋人のクリサン・ブレナンは、ジョブズがアップルから追い出されたとき、彼女と彼女とジョブズの間に生まれた非嫡出子の娘のリサに対して「彼は何度も自身のふるまいについた謝罪した」と話している。
また、ブレナンはジョブズが「自身が責任を負うべきときに責任をとらなかったことを申し訳ない」と話したと話している。
このころまでに、ジョブズはLiSAと強い信頼関係を築き上げ、彼女が9歳のときにジョブズは「リサ・ブレナン」から「リサ・ブレナン・ジョブズ」へ出生証明書の名前の変更を申し出た。
さらに、ジョブズとブレナンはリサを共同養育する関係を築き上げた。これは、ジョブズとリサの関係修復に取り込んでいた実妹モナ・シンプソンによる影響が大きい。ジョブズはアップルを退社した後に産みの母親であるジョアン・キャロル・シーブルと初めて会い、その後、実の妹のモナと出会った。
しかしながら、養母であるクララが生きている間はジョブズは生みの家族と連絡をとらなかった。その理由について、のちにジョブズは公式の自伝作家ウォルターにこう話している。「私は彼らが私の両親ではないと考えようとは思わなかった。なぜなら彼らは完全に私の両親だったから。私は彼らをすごく愛していたので、自分が実の親を探していることを彼らに気づかれたくなかった」。
しかし、1986年ジョブズが31歳のとき、クララは肺がんと診断されると、その頃からジョブズは養母と過ごす時間が長くなり、養母の経歴や自分の養子縁組に関する詳細を聞きはじめた。
やり取りするなかで、ジョブズは実母の名前を見つける動機となる情報を得たという。ジョブズは実母シーブルが妊娠しているときに担当だったサンフランシスコの医者の名前を出生証明書から見つけた。
その医者が生存中は決してジョブズと接触することはなかったが、その医者は自身がなくなったときにジョブズに遺書を残しており、実際に彼が亡くなるとジョブズは「ジョブズの母親はウィスコンシン州出身の未婚の大学院生のジョアンナ・シーブルである」と書かれた手紙が送られた。
クララが亡くなった後、養父ポールの許可を得て初めて実母シーブルと連絡を取った。ポールを尊重して、ジョブズは好奇心と必要性の両方から産みの親を探す動機づけができ「中絶で終わることがなかったため、彼女に感謝したい」と話している。
シーブルと初めて会ったとき彼女は感情的でジョブズに対して(彼女はアップルのことやジョブズの社会的位置についてはよく知らなかった)、養子縁組文書に署名するよう強制されたと話している。シーブルはジョブズを育てることを諦めたことを後悔し、そのことを何度もジョブズに謝罪したという。その後、生涯を通してジョブズとシーブルは友好的な関係を築き上げ、クリスマスをともに過ごすことになったという。
初めてシーブルと会ったとき、シーブルはジョブズに妹モナが存在することを話している。その後、ジョブズはシーブルとニューヨークで働いているモナと3人で会うことになった。モナのジョブズに対する第一印象は「ジョブズは全体的に実直で素敵で、ごく普通の魅力的な男性だった」という。シンプソンとジョブズはその後、お互いを知るために長い散歩をした。
ジョブズはのちに自伝で「お互いよく知るようになるにつれ、リアルで素晴らしい友人となり、また家族となった。彼女なしの人生はありえないだろう。一方で、養子上の妹であるパティとはあまり仲良くなかった」と話している。
その後、ジョブズは自身の家系に関して調べはじめた。養子縁組のため結婚と養育を諦めてから6ヶ月後にシーブルの父親なくなり、シーブルはジョブズの実の父であるジャンダーリと結婚し、実妹のモナを産んだことがわかった。
ジャンダーリは博士号を取得したあと、シリアに戻り仕事に就く。この時代、モナが4歳のときにシーブルとジャンダーリは別れたという(2人は1962年に正式に離婚)。ジャンダーリによれば離婚後、シーブルがどこへ移ったかわからなくなったこともあり、10年間モナと連絡とっていなかったと話している。
数年後、シーブルはアイススケートの先生のジョージ・シンプソンと再婚。モナは継父の姓のシンプソンを取得してモナ・シンプソンという名前になった。しかし、2人は1970年に離婚。シーブルはモナとともにロサンゼルスへ移り、女手1人で彼女を育てた。
1989年、ジョブズはスタンフォード大学経営大学院で講義をしているときに、将来の妻となるローレンス・パウエルと出会う。彼女は当時、講義を聴講しにきていた生徒だった。ジョブズは「彼女は教室の最前列の私のすぐそばにいた。私は彼女から目をそらすことができなかった。思考がぶつぶつになり少しめまいをかんじた」と話している。授業が終わったあと、ジョブズは駐車場で彼女と待ち合わせ、2人で夕食にでかけたという。その後は、残りの人生のほとんどの間、彼女ととも暮らしていたという。
パウエルの父親は幼少期に亡くなっており、母親はジョブズが育ったニュージャージー州で育ったという。パウエルがペンシルバニア大学で学士号を取得したあと、メリルリンチで就職したが仕事にあまり関心がなく、スタンフォード大学に入学してMBAを取得する。
ジョブズは1990年の元旦にプロポーズし、1991年3月18日に結婚、ヨセミテ国立公園のアワニーホテルで仏教式の結婚式を挙げた。この結婚式にはジョブズのグルで曹洞宗の僧侶である乙川弘文が結婚式を司り、ビーガンウェディングケーキが用意された。
ジョブズとパウエルの長男リードは1991年9月に生まれた。1年半後の1993年3月5日、ジョブズの養父ポールが死去。また、1995年に長女エリン、1998年にエヴァが生まれた。家族はカリフォルニア州パロアルトで暮らしていた。
1997−2011
ジョブズのアップル復帰
1996年、アップルは4億2700万ドルでNeXTを買収すると発表。1997年2月に契約を終了し、かつて自ら創立したアップルにジョブズは戻ることになった。ギル・アメリオCEOが1997年7月に退任したあとジョブズは事実上のチーフとなった。ジョブズは同年9月に公式に暫定最高経営責任者に就任した。
1998年3月、アップルの収益を元に戻すことに集中するためジョブズはニュートン、サイバードッグ、オープンドックといったさまざまなプロジェクトを打ち切ることにした。
その後、数ヶ月の間に多くの従業員はエレベーター乗務時にジョブズに遭遇することを恐れ(怒鳴られるため)開発に専念する。「ドアが開いてジョブズがいたとき従業員は仕事が失うかと恐れた。現実にはジョブズの荒々しい処刑はめったになかったが、わずかの処刑犠牲者で会社全体を脅迫するには十分な効果があった」と当時のアップル関係者は話している。
ジョブズはマッキントッシュ互換機のライセンスプログラムを変更したため、製造業者がマシンの製造を続けるにはコストが高くなりすぎた。
NeXT買収とともに同社の技術の多くがアップルのプロダクツに採用されていった。とりわけXNEXTSTEPはMac OSに採用され進化した。ジョブズ指導のもと、iMacやほかの新製品の紹介とともに会社は大幅に売上を伸ばした。それ以来、魅力的なデザインや強力なブランディングはアップルの得意とする方法となっている。
2000年に開催されたマックワールド・エクスポで、ジョブズは公式に仮暫定CEOをやめ、恒久CEOとなった。
その後、アップルはほかのデジタル機器の売出しと改善をはじめる。iPodのポータブルミュージックプレイヤー「iPod」、デジタルミュージックソフトウェア「iTunes」、音楽配信サービス「iTunes Store」の登場により、アップルは消費者電化製品や音楽配信事業に進出をはたした。
2007年6月29日、アップルはマルチタッチディスプレー携帯電話「iPhone」の発表とともに携帯電話事業に参入した。iPhoneにはiPodの機能も搭載されており、また独自のモバイルブラウザを使ってモバイルブラウジングシーンに革命をもたらした。
オープンエンドのイノベーションを育んでいる間、ジョブズはまた従業員たちに「本当の芸術家精神」を呼び起こした。
ジョブズは、「非革新的なベージュの箱」を作ったデルを批判した1987年から、デル・コンピュータのCEOマイケル・デルと公然とした言い争いをはじめた。1997年10月6日、ガートナー・シンポジウムで、デルは当時経営的に問題のあったアップル・コンピュータの経営をしていたらどうしていたか尋ねられ、「会社を精算して株主に返金したい」と答えた。
その後、2006年にアップルの時価総額がデルを上回るとジョブズは全従業員にEメールで「諸君、マイケル・デルは将来を予測するのは完璧ではないことを教えてくれた。今日の株式市場の終値に基づくと、アップルはデルの時価総額を上回った。株は上げ下げするので明日はまた違うかもしれないが、今日は一瞬だが価値はあった」と送った。
ジョブズは信念に対する完遂能力とセールスマンシップにおいて賞賛と批判の両方を受けた。これは「現実の歪みの場」と呼ばれ、特にマックワールドエキスポやアップルのワールドワイド・デベロッパーズ・カンファレンスでのジョブズの基調講演で明らかになった。
ジョブズは1999年から2002年までギャップの取締役メンバーだった。
2001年、ジョブズは行使価格18.30ドルのアップルの750万株のストックオプションを有していた。バックデート操作の疑いがあり、実際の行使価格は21.10ドルだと見なされている。その結果、ジョブズは潜在的に多数の刑事訴訟と民事罰に直面した。
2005年、ジョブズは4月にクパチーノで開催された年次総会で、環境保護派や株主からアップルの米国における電子廃棄物のアップルのリサイクルの取り組みの遅れに対する批判について回答した。数週間後、アップルはこれまで、今後は同社小売店もしくはウェブサイトで購入したiPodを無料で回収すると発表した。翌年リサイクル対象をMacなどほかのApple製品にも拡大した。
2011年ジョブズはオバマ大統領と面会して、国内のソフトウェア・エンジニアが不足しているので、米国の大学で工学の学位を取得した外国人生徒は自動的にグリーンカードを与えるよう提案を申し出た。



悪化する健康問題
2003年10月、ジョブズはがんと診断され、2004年なかばにジョブズはアップルの従業員に対して膵臓がんを患っていることを告知した。
膵臓がんの見通しは一般的に非常に悪いもので、膵がんのより一般的な形態は5年生存率が4%未満だった。
しかし、ジョブズの場合、島細胞神経内分泌腫瘍と知られるそれほど進行的でないレアなタイプのがんで、深刻であることには代わりないが、診断後5年で42%の平均生存率で、より生存率が高く治療可能だった。
がんの診断を受けたにも関わらず、仏教徒で主流の医療に疑問を抱くジョブズは9ヶ月もの間、医者の勧めによる医療治療に抵抗し、代わりに病気の進行を防ぐための代替治療、おもに食事療法に頼った。ほかの医師たちも食事療法でのがん治療は不十分であると話していた。
ジョブズが試した代替治療は、ビーガン食事、鍼治療、薬草治療、インターネットで探したさまざまな治療であり、また精神科医に相談したこともあった。
ハーバード大学の研究者Ramzi Amri氏は早期外科治療で治癒の可能性があったが、ジョブズが代替治療を選択したため、不必要に死を早めたと話している。
2011年1月17日、肝臓移植後に仕事に戻ってから1年半後、アップルはジョブズは仕事を中断して治療に専念する診断がくだされたと発表。ジョブズは手紙でアップル従業員たちに自身の一時休職を告げ、「自身の健康問題に集中できるようにする」と決定をくだした。
2009年の休暇時と同じように、アップルはティム・クックが日々の業務を遂行し、ジョブズは引き続き会社の重要な戦略決議に参加すると発表した。
休職中、ジョブズは2011年3月2日のイベントでiPad2の発売イベントに参加してアピール、また同年6月7日のクパチーノ市議会とその前日の6月6日のWWDC基調講演に登壇したiCloudを紹介した。
2011年8月24日、ジョブズはAppleのCEOの辞任を告知。「Appleの最高経営責任者(CEO)としての職務や期待にこたえられなくなったときが来たときは、まず自身で告げるだろうといつも話してきたが、残念なことにその日が来た」と取締役会に手紙を書いた。
ジョブズは取締役会の議長となり、またティム・クックを後継者としてCEOに任命した。その後、ジョブズは6週間後に亡くなるまでアップルで働き続けた。
死去
ジョブズは2011年10月5日カリフォルニア州パロアルトの自宅で死去。以前、手術した膵島細胞膵臓神経内分泌腫瘍の再発の合併症による呼吸停止が原因だった。
ジョブズは死去する前日に意識を失い、妻、子ども立ち、姉妹だちに見守られて亡くなった。実の妹モナ・シンプソンはジョブズの死の間際について・「スティーブの最後の言葉は「時間は早い(hours earlier」を単音節で3度繰り返した」と話している。
亡くなる前、ジョブズは妹パティー、その後長い間子どもたち、その後生涯のパートナーのローレン、その後肩越しに彼らの過去を観た。スティーブの最後の言葉は「Oh wow. Oh wow. Oh wow.」だった。その後、意識を失い数時間後死去。2007年10月7日、限られた人たちとプライベートに埋葬が行われた。
アップルとピクサーはそれぞれジョブズ死去の告知を発表した。Appleは同日、公共サービスの計画はないと発表したが、「有志」に対して追悼メッセージをEメールアドレスに送信して励ました。
アップとマイクロソフトは本部とキャンパスで半旗を掲げた。ボブ・アイガーは2011年10月6日から12日までディズニーの全従業員に命じて半旗を揚げた。
ジョブズの死後2週間、アップルは自社のウェブサイトにジョブズの名前と寿命を彼のモノクロームの肖像の隣に表示した簡単なウェブページをアップした。
2011年10月19日、アップル従業員はクパチーノにあるアップルキャンバスでジョブズのプライベート記念サービスを開催した。ローレン、クック、ウィリアム・キャンベル、ノラ・ジョーンズ、アル・ゴア、コールドプレイらが参加した。アップルの小売店の従業員の中には店をしめて。メモリアルに出席したものもいた。このメモリアルの様子はアップルのウェブサイトで公開された。
カリフォルニア州知事のジェリーブラウンは、2011年10月16日日曜日を「スティーブジョブズデー」と宣言しました。その日、スタンフォード大学で招待形式の追悼式が開かれた。この追悼式に出席したのは、ジョブズの家族、ハイテク企業幹部、メディア関係者、著名人、ジョブズの親友、政治家たちだった。ヨーヨー・マ、ボノ、ジョーン・バエズらが追悼式で演奏を行った。
ジョブズはパロ・アルトの無宗派の墓地であるアルタ・メサ記念公園の墓地に埋葬された。


ジョブズの発明したものとデザイン
ジョブズのデザインや芸術は禅や仏教の哲学から影響を受けている。7ヶ月間にわたるスピリチュアル旅行をしているときにジョブズはインドで仏教を学び、彼が身に付けた「直観力」は、そこで教わったスピリチュアル系の人物から影響が大きい。
ほかにジョブズはジョセフ・アイクラーのモダニズム建築やリヒャルト・ザッパーやディーター・ラムスのインダストリアルデザインらなどさまざまな人物からデザインや芸術の影響を受けている。
共同設立者のスティーブ・ウォズニアックによれば、「スティーブはコードは書かなかった。彼はエンジニアではなくオリジナルデザインを書いていない」と話している。
また、アップルの初期従業員でジョブズの親友のダニエル・コトキーは「ウォズは創案者であり開発者で、スティーブはマーケティング担当だった」と話している。
ジョブズはコンピューターや携帯機器からユーザーインターフェース(タッチ式を含む)、スピーカー、キーボード、電源アダプター、階段、留め金、スリーブ、首紐にいたるテクノロジーに関連する発明者、もしくは共同発明者として、米国特許または特許出願を346件提出している。
なお、ジョブズが特許で貢献した多くは「製品の外観」で、アップルのインダストリアル・チーフのジョナサン・アイブとは共同で200の特許出願をしている。これらのほとんどはデザイン特許である。特定の製品デザイン、たとえばPowerBook G4 Titaniumと同様にオリジナルとランプスタイルのiMacの両方において主要発明者としてジョブズは特許登録している。
「拡大効果」を備えたMac OS X Dockユーザインタフェースに関する特許は、ジョブズが亡くなる前に発行された。ジョブズはオリジナルのアップル・コンピューターに関するエンジニアリングやテクニカルな部分に関してはほとんど関与していなかったが、のちにCEOの地位を使ってプロダクトデザインに直接関与した。
ジョブズのキャリアを通じて多くのプロジェクトに参加したのは、彼の長年のマーケティング・エグゼクティブであり腹心だったジョアンナ・ホフマンである。彼女はジョブズのAppleとNeXTの両方に携わっていた数少ない従業員の1人として知られている。ホフマンはジョブズとかみあい、また対立しながら成功した人物である。
入院中時のときでもジョブズはベッドの上でiPadを使って新しいデバイスのスケッチをしていた。また病院で指に付ける酵素モニターのデザインをバカにして、シンプル化するためのデザインの修正案を提案していたという。
ジョブズの死後、元AppleのCEOとして141の特許を取得し、現在ジョブズは450以上の特許を取得している。
●Apple Ⅱ
Apple Ⅱは8ビットのホームコンピュータで、大量生産マイクロコンピュータ製品として初めて大成功したものの1つ。主要部分はスティーブ・ウォズニアックが設計した。ジョブズはApple Ⅱの外観デザインを監督し、ロッド・ホルトが独特な電源部分を担当した。1977年にウェスト・コースト・コンピュータ・フェアでジョブズに紹介され、アップル・コンピューターが販売した最初の消費者向け製品となった。
●Apple Lisa
Lisaは1980年代初頭にアップルが設計した16ビットのパーソナル・コンピュータ。個々のビジネス・ユーザーを対象としたマシンとしてGUIが導入がされた最初のコンピュータ。1978年にLisaの開発は始められた。しかし、Lisaは高額なこともあってたった10万台しか売れなかった。1982年にジョブズはLisaプロジェクトから外されると、マッキントッシュ・プロジェクトへ移る。MacintoshはLisaと明らかに類似点が存在するものの、直接的な後継機ではない。Lisaの最終版「Lisa 2/10」は、名称をMacintosh XLと変更され発売された。
●Macintosh
ウォズニアックが飛行機事故に遭遇して休職したあと、ジョブズはプロジェクトを引き継ぎMacintosh開発チームに参加した。ジョブズは1984年1月24日にMacintoshコンピュータを紹介した。MacintoshはGUIとマウスを備えた最初の大量生産向けパーソナル・コンピュータだった。最初のモデルは単なる「Macintosh」という名称だったが、その後に発売されたアップデートモデルと区別するため、メモリ搭載容量から「Macintosh 128k」と改名され、Macintoshの基盤設計となった。
1998年からAppleは「Mac」という名称を使いはじめMacintoshという名称の大部分を廃止しはじめた。
Macintoshはリドリー・スコット監督のアップルコンピュータのMacintosh用テレビCM『1984』で紹介された。このCMはその後のアップルの分水線となる重要となる傑作と評価する人が多く、またマーケターのレジス・マケナはこのCMについて「Mac以上に成功したCM」と評価した。「1984」はコンピュータ業界を支配しようとするIBMの陰謀から人類を救う手段として、名前のないヒロインがスクリーンにハンマーを投げつけMacintoshが登場するという内容である。
●NeXT Computer
1985年にジョブズはアップルを退職したあと、ワークステーション・コンピューターを開発する会社を設立する。The NeXT Computerは1988年に豪華開発イベントで紹介された。ティム・バーナーズ=リーはNeXT Computerを使って世界で最初のウェブブラウザを作成した。NeXT Computerは今日のmacOSやiOSの基礎となった。
●iMac
アップルは1998年にiMacを発表。革新的なデザインでジョブズのアップル復帰が直接開発に結びついた製品だった。アップルは「私たちのコンピューターの背面は誰が見てもよく見える」と自慢した。「漫画のような」と表現されるボンダイブルーのプラスチックで覆われた初代iMacは以前のパーソナルコンピュータとは異なっていた。1999年にアップルはグラファイトグレイのApple iMacを発表し、それ以来、オールインワンデザインを続けながら形状、カラー、サイズを変えていった。デザインのアイデアは、コンピュータがスリープ状態になったときにハンドルやライト効果があるなど、ユーザーとのつながりを作ることを目的としていた。iMacは当時1,299ドルで販売された。iMacはまたそれまでのRS-422シリアルポート、フロッピーディスク、ADB、SCSIを廃し、唯一のデバイス入力としてUSB端子を採用するなどいくつかの技術革新を特徴とした。このためサードパーティ製周辺機器で急速にUSB対応機器が普及した。
●iTunes
iTunesはアップルが開発したメディアプレイヤーである。同時にメディアライブラリであり、インターネットラジオであり、モバイル端末管理アプリである。macOSやWindowsOSがインストールされたPC上でメディアの再生、ダウンロード、デジタルオーディオやビデオの整理が行える。iTunes内のiTunes StoreはiPod Touch、iPhone、iPadからアクセスできる。
●iPod
初代iPodは2001年10月23日に公開された。iPodの大きな革新性はサイズだった。当時のモバイルプレイヤーといえば2.5インチドライブが標準だったが、iPodは1.8インチのハードドライブを採用することによって大幅にコンパクト化に成功した。第一世代のiPodの容量は5GBから10GBだった。iPodは399ドルで販売され2001年の終わりまでに10万台以上が販売された。iPodが登場した結果、アップルは音楽業界の主要機器となった。また、iPodの成功はiTunesミュージックストアやiPhoneへの下準備となった。第一世代iPodの後、アップルは翌年ハードドライブベースのiPod Classic、タッチスクリーン式のiPod Touch、ビデオ再生に対応したiPod nano、スクリーンレスのiPod Shuffleを発売した。
●iPhone
アップルは2005年に初代iPhoneの開発をはじめ、2007年6月29日に発売した。iPhoneは発売時にアメリカ人の10人中6人が知っているほどのセンセーショナルを生み出した。『タイム』紙は2007年を「発明の年」と打ち出した。完成度の高いiPhoneはマルチメディア機能があり、クワッドバンドのタッチスクリーンのスマートフォンとしての機能とを搭載していた。1年後、iPhone 3Gが2008年7月に発売された。3Gの特徴は「GPS」「3G」「UMTS/HSDPA」だった。ジョブズはiPhone4Sまで関与している。
●iPad
iPadはiOSを基盤にしたタブレット・コンピュータである。初代iPadは2010年4月3日に発売された。ユーザーインターフェースはiPhoneと同じくマルチタッチスクリーン式で仮想キーボードが搭載されている。iPadはWi-Fiモデルとセルラーモデルがある。2015年4月までに250万台以上が世界中で販売された。
ジョブズの伝記に関する書籍、映像
受賞
・1985年:アメリカ国家技術賞(スティーブ・ウォズニアックと共同)、ロナルド・レーガン大統領より受賞。
・1987年:公共事業ジェファーソン賞
・1989年:『Inc.』誌による10年内の注目の起業家。
・1991年:リード大学・ハワード・ボルラム賞
・2007年:『フォーチュン』誌によるビジネスにおける最もパワフルな人物
・2012年:グラミー賞 特別功労賞理事会賞
・2013年:ディズニー・レジェンド
・2017年:アップル・パーク内にスティーブ・ジョブズ・シアターが開設。
■参考文献
・スティーブ・ジョブズ(ウォルター・アイザックソン)
・https://en.wikipedia.org/wiki/Steve_Jobs
■画像引用
※2:https://www.findagrave.com/memorial/129694761/paul-reinhold-jobs