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【完全解説】ラリー・ペイジ「Google創設者で検索アルゴリズム発明者」

ラリー・ペイジ / Larry Page

Google創設者で検索アルゴリズム発明者


概要


生年月日 1973年3月16日
国籍 アメリカ
居住地 カリフォルニア州パロアルト
職業 コンピュータ・サイエンティスト、インターネット起業家
職歴

・グーグル(共同設立者、CEO)

・アルファベット(設立者、CEO)

学歴

・ミシガン大学(理学学士)

・スタンフォード大学(理学修士)

資産

564億ドル(2019年4月)

年収

1ドル(One-dollar salary)

配偶者

ルシンダ・サウスワース

子ども

2人

ローレンス・エドワード・“ラリー”・ペイジ(1973年3月16日生まれ)はアメリカのコンピュータ・サイエンティスト、インターネット起業家。グーグルの共同設立者、前最高経営責任者(CEO)。

 

ペイジはセルゲイ・ブリンとともにグーグルを設立した人物として一般的に知られている。セルゲイ・ブリンの助力を得てグーグル初期のページランクシステムや検索アルゴリズムの核となる部分を開発した。

 

現在のペイジはグーグルを退社し、グーグルの持株会社であるアルファベットの創設、およびCEOを努めている。1998年にグーグルを立ち上げたあと2001年8月に1度グーグルのCEOを辞任し、代わりにエリック・シュミットがCEOに就任する。2011年4月に再びCEOに復帰。

 

2015年7月に再びCEOを辞任し、同年10月にグーグルの資産を管理する持ち株会社アルファベットを創設し、CEOに就任した。ペイジ指揮のもと、現在のアルファベットはさまざまな業界において大きな進歩を遂げようとしている。

 

2018年12月、ペイジは510億ドルの総資産を有する世界で8番目の富豪となった。また、『フォービス』誌の「ビリオネア 2019年」特集では10位にランクインしている。

 

ペイジはブリンとともに2004年にマルコーニ賞を受賞している。

重要ポイント

  • グーグル共同創設者
  • 初期検索エンジンの核となる部分を開発
  • 現在はアルファベットCEO

略歴


幼少期


ペイジは1973年3月26日ミシガン州イーストランシングで生まれた。母親はユダヤ人で母方の祖父は後にイスラエルへアリヤーとして移ったが、ペイジはどの形式の宗教に従うかは明らかにしなかった。

 

ペイジの父親のカール・ビクター・ページはミシガン大学でコンピュータ・サイエンスの博士号を取得している。BBCのジャーナリストウィル・スメイルは父カールを「コンピュータ・サイエンスと人工知能のパイオニア」と説明しており、実際にそのジャンルを確立した人物として知られている。

 

ペイジの父はミシガン州立大学のコンピュータ・サイエンスの享受であり、ペイジの母グロリアはライマンブリッグス大学とミシガン州立大学のコンピュータ・プログライミングのインストラクターだった。

 

インタビューでペイジは幼少時代について、彼の家の中には「コンピュータ、科学、技術の雑誌とポピュラー・サイエンスの雑誌がいたるところに散らばっていた」と話しており、彼自身がそういう環境に没頭したという。

 

ペイジは若い頃、熱心な読書家だった。2013年のGoogle創設者の手紙で「私は本や雑誌の読書に膨大な時間を費やしていたことを覚えている」と書いている。作家のニコラス・カールソンによれば、ペイジの自宅の雰囲気と彼の寛容性の高い両親の複合的な環境がペイジの「創造性と発明力を育むのに助けた」と話している。

 

また、ペイジは音楽も好きでフルートを演奏したり作曲も学んだ。彼は有名なミュージックサマーキャンプ、ミシガン州のインターロッケンで開催されるインターロッケン・アート・キャンプに出席した。

 

ペイジは若いころに身に着けた音楽教育が、コンピュータでコマンドを入力したときのレスポンスの遅さに対するいらだちや執着を刺激したと話している。「ある意味で、幼少期の音楽トレーニングはGoogleのハイスピード戦略の源になったと思っています。音楽は自身の時間感覚と共鳴してる。音楽の観点から考えると、パーカッション奏者であれば何かを打つと、ミリ秒単位で反応する。そんな感覚がコンピュータにおいても私にとって重要だったと話している。

 

ペイジは6歳のときに、母親と父親が所持していた「第1世代のパーソナル・コンピュータ」の周りにあるもので遊ぶことができる環境にあったため、まずコンピュータに夢中になった。ページは「小学校で最初にワープロを使って課題を提出した子ども」であるという。

 

また、ペイジの兄は物事を分解して仕組みを理解する楽しみを教えてくれたという。ペイジは物事を分解してその中身がどのように仕組み・構造になっているか知るため、家中のあらゆるものを分解したという。

 

ペイジは「幼少期のころから私は発明欲が強かった。だから私は本気でテクノロジーやビジネスに関心を持つようになった。たぶん、12歳のときからいつか起業しようと考えていた」と話している。

 

ペイジは1975年から1979年までミシガン州桶モスにあるオケモス・モンテッソーリ学校に通い、1991年にイーストランシング高校を卒業。高校時代二夏の間をサックス奏者としてインターロッケン芸術センターで演奏した。

 

その後、ペイジはミシン大学でコンピュータ・エンジニアリングのりガクガクしを取得、スタンフォード大学でコンピュータ・サイエンスの名誉博士号を取得している。

 

ミシガン大学在学中、ペイジはレゴブロックで作られたインクジェットプリンタをつくった。これによってインクジェットカートリッジが安価に利用できるようになった。ペイジはインクカートリッジをリバースエンジニアリングして、その駆動となっている電子機器とメカニズムを知り尽くした。

 

ペイジは「Eta Kappa Nu(電気電子技術者協会)」のベータ・イプシロン支部の代表を務め、また、1993年には「メイズ&ブルー」ミシガン大学ソーラーカーチームの会員だった。

 

ミシガン大学の学部生として、彼は学校がバス通学システムをPRTシステム(個人用高速輸送システム)に置き換える提案をした。PRTシステムとは個人、または小人数の移動(3〜6人乗)の無人のモノレールである。

 

また、この時期に音楽シンセサイザーを構築するためのソフトウェアを利用する会社の設立するビジネス計画を立てていた。

博士課程と研究


スタンフォード大学のコンピュータ・サイエンス博士課程に入学した後、ペイジは論文のテーマを探す。World Wide Web(WWW)のにおけるリンク構造を巨大なグラフとして把握しようとし、その数学的性質を調べることにした。

 

彼のスーパーバイザー、テリー・ウィノグラードは、ペイジにその研究を追求することを奨励し、ペイジは2008年にテリー・ウィノグラードから今までで最も素晴らしいアドバイスをしてくれたと話している。また、この時期に自動走行の車やテレプレゼンスの研究も検討した。

 

ペイジはどのページがどのページにリンクを貼っているかという問題に焦点を当て、被リンクの数が多いページほど貴重な情報があると考えた。学術出版における引用の役割もまた研究においても大切なことと同様である。

 

それまでの検索エンジンは、ページ内に記載された言葉でページの重要性を判断していた。特定の言葉の使用回数が多ければ、そのページはそのトピックについて詳しく書かれていると理解し、検索結果の上位に表示させていた。

 

スタンフォード博士課程の学生で学友のセルゲイ・ブリンは、すぐにBackRub(バックラブ)」と呼ばれるペイジの研究プロジェクトに参加した。バックラブはグーグルの前身となる名前である。

 

2人は当時のインターネット歴史の中で最もダウンロードされた科学的文書の1つおなった「大規模なハイパーテキスト的なウェブ検索エンジンに関する分析(The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine)」と題された研究論文を共同で執筆した。

 

ペイジがバックラブを考案した当時、ウェブ上には推定1000万件の文書があり、それらの間には膨大な数のリンクがあった。そのようなジャングルの世界をクロールするのに必要な計算資源は、通常の学生のプロジェクトの領域をはるかに超えたものだった。

 

しかし、ペイジは独自のクローラを作りはじめた。ペイジのアイデア複雑で規模が大きかったため、ブリンがクローラ作りの手伝いをはじめたという。

検索エンジンの開発


バックラブのウェブ・クローラーから収集された被リンクデータからウェブページの重要性に計測するため、ブリンとペイジはPageRank(ページランク)」アルゴリズムを開発する。2人はページランクは、これまでの検索エンジンよりもはるかに優れた検索エンジンになるだろうことを自覚する。

 

このアルゴリズムは、あるページから他のページへとのリンクにおける関連性を分析する新しい技術に依拠するものだった。

 

二人のアイデアを組み合わせ、ペイジの寮の部屋を機械実験室として利用し、安価なコンピュータから部品となるものを取り出し、スタンフォードのブロードバンド・キャンパス・ネットワークに接続するための初期の検索エンジンが搭載されたデバイスを開発した。

 

開発を続けているうちにペイジの部屋が機械の部品だらけになったので、二人はブリンの部屋をオフィスとプログラミング・センターにする。そこで2人は新しい検索エンジン設計のテストを試みた。彼らのプロジェクトが急成長したことで、スタンフォードのコンピューティング・インフラストラクチャに問題が発生した。

 

たまたま、ペイジもブリンも視覚的に手のこんだウェブページを作成する能力はなかったので、基本的なHTMLプログラミングのスキルだけで、ユーザーが使いやすい検索ボックスしかないシンプルなサイトを作成した。

 

また、二人は複数のユーザーよる検索処理に対応可能な処理能力のあるコンピューティングを作成するため、新たにコンピュータの部品を集め、使い始めた。二人が作成した検索エンジンが、スタンフォード内で人気になるにつれ、クエリを処理するためのサーバがどんどん必要になりはじめた。

 

1996年8月、Googleの初期バージョンがインターネットに登場。1997年の初めまでに、バックラブのページは次のように状態だった。

 

Some Rough Statistics (from August 29, 1996)

 

Total indexable HTML URLs: 75.2306 Million

 

Total content downloaded: 207.022 gigabytes

 

...

BackRub is written in Java and Python and runs on several Sun Ultras and Intel Pentiums running Linux. The primary database is kept on a Sun Ultra series II with 28GB of disk. Scott Hassan and Alan Steremberg have provided a great deal of very talented implementation help. Sergey Brin has also been very involved and deserves many thanks.

 

— Larry Page page@cs.stanford.edu

 

バックラブは現在の検索エンジンの基本的な機能と特徴を有しており、クエリ入力ができ、ページランクによって重要性の高いページを検索結果上位に表示することができた。

 

ペイジは1998年になかばに自分たちのサイトのさらなるポテンシャルに気がつく。「近い内に、1日に1万件の検索が到達する。

 

「1440年、ヨハネス・グーテンベルクは活発印刷機で聖書を大量生産した。この技術により、もともとは手で複製していた本や原稿をはるかに速い速度で印刷することが可能になり、多くの人に知識が広がり、ヨーロッパのルネサンスの到来を告げた。Googleもまたグーテンベルクと同様の発明である」というように、ペイジとブリンのビジョンをグーテンベルグの活版印刷技術の情報革命と比較する人もいた。

 

その後、2人は本をデジタル化したり健康情報を広めたりするなど当時のウェブにはまだなかった情報の整理について考え始めた。

Google社の設立


1998年、ブリンとペイジはGoogle,Inc.を設立。最初のドメインは「Googol」で、その名前の由来は、1の後に0が100個連なった整数の呼び名「googol(グーゴル)」で、検索エンジンが探索しようとしていた膨大な量のデータを表しているという。創業後、ペイジはCEOに就任し、グーグルの共同創設者であるブリンはグーグルの社長に就任した。

 

2014年にライターのニコラス・カールソンは、「グーグルはよく、セルゲイとラリー、またはラリーとセルゲイの2人の若いコンピュータビジネスマンによって発明されたと考えられているが、実際のところセルゲイ・ブリンの助力を得たラリー・ペイジの創造物である」と書いている。

 

2人の理念は「世界の情報を整理し、それに普遍的にアクセスでき有用なものにすること」だった。友人や家族から100万ドルの融資を得て、2000年初頭に創設メンバーはマウンテンビューのオフィスへ移った。

 

1999年、ペイジは小規模のサーバーで運営できるようするため、グーグルが同社のサーバー設置用に借りたサードパーティの倉庫各1平方メートルに収まるようにサーバを設計した。これは最終的に当時のグーグルの競合他社よりもはるかに高速な検索エンジンが生まれることにつながった。

 

同社は6月26日にプレスリリースでNECリサーチインスティチュートのデータを引用して、「今日においてオンライン上には10億以上のぅ絵部ページがある」と述べ、またグーグルは「5億6000万のフルテキストインデックス付きウェブページと5億の部分的インデックスURLにアクセスできると」と話した。

初期CEOの方針


CEOに就いたペイジは、2001年にグーグルすべてのプロジェクト・マネージャーを解雇することにした。ペイジの計画ではグーグルのエンジニア全員がエンジニアリング副社長に報告し、その後、副社長が直接ペイジに報告する方針だった。

 

ペイジはテクニカル知識に乏しい非エンジニアがエンジニアを管理するのは好ましくないと説明し、また、自身のマネジメント原則を文書化した。

 

・人に委ねるな:物事を円滑するにはできるだけ自分でしよう。

・相手に価値を与えられないなら参加するな。実際に業務をしている人たちが仕事をしていとき、あなたは何か他の事に手を付けよう。

・役人になるな

・年齢よりアイデアが重要だ。年下だからといって尊敬や協力しないのはよくない。

・最悪なことは「きりがない」といって何かしている人の行為をさえぎることだ。それを言うなら、それを成し遂げるための最善の方法を見つけて助けてあげるべきだ。

 

ペイジが掲げた新しいマネジメント理念は、当初従業員たちの間で不満をもたらしたが、非エンジニアのスタッフによって管理されるエンジニアの問題は社内を超えて広く共有されるようになり、最終的にはエンジニアリングチームの管理職にエンジニアを就かせる慣行が、シリコンバレー全体の標準として確立されるまでにいたった。

エリック・シュミットCEO時代


シリコンバレーの2人の最も著名な投資家であるクライナー・パーキンス・コーフィールド・アンド・バイヤーズとセコイア・キャピタルは、グーグルに合計5000万ドルを投資することに合意し、彼らはペイジに圧力をかけてCEOの辞任を要請し、代わりに「世界クラスのマネジメントチーム」を結成できるよう経験豊富なリーダーをトップに据えようとした。

 

その後、ペイジはスティーブ・ジョブズやインテルのアンドリュー・グルーブなどほかのテック系CEOと面会したあとCEOの辞任に従うことにした。

 

2001年3月、グーグルの会長にエリック・シュミットが就任し、同年8月、グーグルのCEOに就任するためシュミットはノベルのCEOを辞任し、ペイジはプレジデント・プロダクトに就任することになった。シュミット指導のもと、グーグルは2004年8月20日に新規上場(IPO)をし、大きな成長と拡大の時期を迎えることになった。

 

経営陣の雇用やセールスフォースのマネジメントシステムの構築などの先議に着手する際、シュミットはいつもペイジやブリンと相談しながら行動をした。ペイジは最終的に全新入社員を承認し、従業員の視点からグーグルのボスであり続け、IPOの署名を提供したペイジはのちに30歳で億万長者になった。

 

まだ、スマートフォンが一般的に普及していなかった2005年にペイジは5000万ドルでAndroidを買収し、のちに多くの人がスマートフォンを所有するようになったときにどこからでもグーグルにアクセスできるミッションを掲げた。アンドロイドの買収はシュミットの知らないうちに行われていたが、比較的小さな買収だったため社内で混乱は起きなかった。

 

ペイジはアンドロイド開発に熱心になり、アンドロイドのCEO兼共同創設者のアンディー・ルービンと過ごす時間が長くなる。2008年9月までにアンドロイド・ソフトウェアを初めて利用した電話であるG-1がT-Mobileから発売され、2010年までに携帯電話市場の17.2%がアンドロイドの売上となり、アップルを初めて追い抜いた。その後、すぐにアンドロイドは世界で最も人気のあるモバイルOSへと発展した。

再度CEOに就任と経営方針の大転換


2011年1月の告知の後、ペイジは2011年4月4日に公式にグーグルの最高経営責任者となり、一方シュミットは執行委員長に就任した。この頃までにグーグルの時価総額は1,800ドル以上となり、従業員数は24,000人を超えた。

 

2011年1月20日にシュミットがCEOの辞任を告知した後、彼は冗談めかしてツイッターに「もう成人の監督は必要ありません」と投稿した。

 

グーグルの新CEOとしてのペイジは2つの重要な目標は、最も重要な部門を監督する幹部のより自律性の発展と、チーム間におけるより高いレベルのコラボレーション、コミュニケーション、団結だった。

 

ペイジはのちにメディアに「Lチーム」と呼ばれる社内グループを形成した。これは一週間のうちの一部をペイジのオフィスの近くで業務をこなし、ペイジに直接報告する上級副社長のグループのことである。

 

さらに、ペイジは上級管理職を再編成し、YouTube、グーグルアドワーズ、グーグル検索などグーグルの核となるサービスのトップにCEOと同じような立場のマネージャーを配置した。また、よりまとまりのあるチーム環境を作るよう、ペイジはグーグル初期の頃とは対照的な新しい「ゼロトレランスの戦い」という方針を宣言する。

 

ペイジはCEOから離れている10年の間に自身の経営思考を大きく変え、最終的には、非常に野心的な目標を達成するには調和のとれたチームのダイナミズムが必要であるという結論に達したという。

 

ペイジは共同活性化プロスの一環として、グーグルの製品やアプリケーションを統合して、美術的側面を徹底的に見直すことに注力した。

Googleデザインの改革「プロジェクト・ケネディ」


2013年3月までに少なくとも70のグーグルの製品、機能、サービスが終了し、残ったサービスのデザインや特徴が統一されることになる。

 

当時、グーグル検索のデザインチーフだったジョン・ワイリーは、ペイジのグーグルサービス全体のデザイン再構築プロジェクトをコードネーム化し、「プロジェクト・ケネディ」と呼び、2011年4月4日に一般に発表した。

 

「プロジェクト・ケネディ」が開始された当時のアンドロイドのユーザーエクスペリエンスのシニアディレクターのマティアス・ドワーティは、2013年に「グーグルはデザインについて熱心に考えている」と説明した。

 

グーグルは以前にも「カンナ」と名付けたコードネームでグーグルのさまざまな製品を統一したデザインにしようとしたことがあるが、当時はあるチームからデザイン変更に対する反発があったため実行が難しかったという。

 

ペイジはニューヨークに本拠を置くグーグル・クリエティブ・ラブのデザインチームと相談して、グーグルの「統一したビジョン」が今後どのようなものになるかという質問に答えた。

 

2011年6月から2013年1月にかけて段階的に実行された「ケネディ」の最終的な形は、「洗練、余白、清潔さ、弾力性、有用性、あらゆるシンプルさ」に焦点を当てたものになるだろうと、テクノロジーメディア『ザ・ヴァージ』上で説明し、最終結果として「速く動く」という一貫したグーグルサービスに対するペイジの目標と一致してプロジェクトは終了した。

買収戦略と新製品


ペイジのCEO第二期開始時は急速にフェイスブックの影響力が拡大した時期だったため、2011年なかば、グーグル自身のソーシャルネットワークサービス「Google+」を開設する。

 

2011年8月、ペイジはグーグルがモトローラ・モビリティを125億ドルで買収すると発表。買収目的はおもにアップル社を含む企業による訴訟からアンドロイドを保護するために特許を保護する必要性に迫られたためだという。

 

ペイジは2011年8月15日、グーグルの公式ブログに以下のように書いた。

「マイクロソフトとアップルを含む企業は、アンドロイドへの反競争的な特許攻撃をしている。モトローラの買収でグーグルの特許ポートフォリオが強化され、マイクロソフト、アップル、その他の企業からの反競争的脅威からより強力に保護できるようになった」。

 

2012年5月、ペイジはハードウェア事業にも進出し、グーグルはChromebookを発表。このハードウェア製品はクロームOS上で動作するラップトップパソコンである。

10Xの概念


2013年1月、ペイジは「Wired」でインタビューを受け、作家のスティーブン・レヴィはペイジの「10X」の概念について話し合っている。「10X」とは、一般的には10の倍数のことで、たとえばグーグルの従業員は競合他社の製品やサービスより少なくとも10倍優れたものを提供することを期待するという意味が含まれている。

 

グーグルXの代責任者であるアストロ・テラーはレヴィに「10X」はまさにペイジの中心的概念である」と説明し、ほかに「次の10Xとなるものはどこにあるか」という未知的な意味も含んでいるという。

 

レヴィとのインタビューで、ペイジは投資家が当初興味を持っていなかった「クレイジー」なアイデアの代表としてYouTubeやAndroidの成功を挙げ、「クレイジーなことをしていなければ、間違ったことをしていたことになる」と話している。

グーグルCEOの辞任とアルファベットの創設


ペイジは2014年10月に大規模な経営再編を告知し、彼自身は日々のグーグル関連のサービスに関して、あまり意思決定をすることはなくなるだろうと告知した。

 

告知されたメモの中でペイジは、今後、グーグルの主要サービスはまっとうな経営方針で進められ、自身はグーグルXの推進をはじめ、カリコのバイオテクノロジー事業や、ネストラブズによるスマートホーム事業、グーグルファイバーなど、次世代の野心的なプロジェクトに取り組むと述べた。

 

しかし、ペイジは非公式のCEOのままであり続けると主張しつつ、グーグルの主要サービス担当役員を次期グーグルのCEOとなるグーグルの上級副社長のサンダー・ピチャイに任せると述べた。

 

2015年8月10日、グーグルは新しい公開持ち会社である「Alphabet Inc.」の設立を告知した。ペイジはこの告知をGoogleの公式ブログ内の記事として投稿した。アルファベットは、グーグルの各子会社をグーグルからアルファベットへと移し、グーグルが対象とする事業を限定して再編を行うために設立されるとされた。

その他の活動


2013年9月、ペイジはバイオテクノロジー分野の研究開発プロジェクトとして「Calico」という独立した研究機関を立ち上げた。

 

グーグルによれば、カリコは人間の健康分野における革新と改善を目指しているとし、アップルの取締役会長で元ジェネンテックCEOのアーサー・レビンソンが新しい部門のCEOとして任命された。

 

ペイジの公式声明では「病気や加齢は家族全員に影響を与える。長期的には、ヘルスケアやバイオテクノロジーまわりに焦点を当てたものとなり、何百万人の人々の生活の改善ができるようになるだろうとおもう」は述べている。

 

ペイジはテスラ・モーターズの投資家でもある。彼はGoogle.orgの支援を受け再生可能なエネルギーに投資している。グーグルの慈善事業の目的はプラグイン・ハイブリッド電気自動車の普及の促進である。

 

また、ペイジ一般消費者向け航空機を開発しているスタートアップ企業オープナーの戦略的後援者でもある。ほかに高度なインテリジェントシステムの社会経済的影響や高度なデジタル技術の活用方法、人々へのニーズへの対応、労働時間の短縮、技術的失業の潜在的な悪影響などにも関心を持っている。

 

ペイジはシリコンバレーを拠点とする教育機関シンギュラリティ・ユニバーシティの設立の支援も行っている。

パーソナル


2007年、ペイジはリチャード・ブロンソンが所有するカリブ海のニッカー島でルシンダ・ソウスワースと結婚。ソウスワースは研究科学者であり、女優でモデルのキャリー・ソウスワースの姉妹である。ペイジとソウスワースの間には、2009年と2011年に生まれた2人の子どもがいる。

 

2005年2月18日、ペイジはカリフォルニア州パロアルトにある940平方フィート(840平方メートル)スペイン植民地風建築の古屋敷を購入した。

 

この家はカーメル美術館の創設者であり、スタンフォート美術館の前キュレーターのアメリカ芸術研究家ペドロ・ジェセフ・デ・レモス(1882−1954年)が1931年から1941年にかけて設計、建設した歴史的建造物で国定史跡登録簿に登録されているものである。売価は795万ドルだった。

 

2階建ての漆喰のアーチが私道にまたがり、スペインのデレモス一家の城に似せて建設されたカリフォルニア・アーツ・アンド・クラフト運動スタイルの石やタイルや緻密な漆喰細工が施された家屋が特徴である。

 

2009年にペイジは巨大なエコハウスを作るためにパロアルトの自宅に隣接する土地を購入し住宅を取り壊した。それまであった建物は「解体」され、解体された後の資源は再利用のために寄付された。エコハウスは「環境への影響を最小限に抑える」よう設計された。

 

2011年にペイジは、ヘリポート、ジム、マルチレベル・サンデッキ、10の豪華な特別室、14人のクルーを備えた全長193フィート(59m)の豪華スーパーヨットで、フランスのインテリアデザイナーフィリップ・スタルクが内装を手がけた「センシーズ」を4,500万ドルで購入してオーナーとなった。センシーズは広範囲の海洋探査能力を備え、世界中の海を快適に探検するために製造された。

 

ペイジは2013年5月、グーグル+上で右の声帯が前の夏頃から患った風邪が原因で麻痺しており、また1999年に左側の声帯も麻痺していると発表した。ペイジは14年間声帯問題で苦しんでいると説明し、2013年5月の投稿時点では、医師は正確な原因を特定することはできていないという。

 

グーグル+の投稿で、ペイジがアメリカボストンにある声帯健康機関の声帯神経機能研究プログラムにかなりの金額の寄付をしたことも明らかにした。このプログラムは、マサチューセッツ総合病院の外科医スティーブン・M・ゼイトルズと喉頭外科のユージーン・B・ケーシー教授が主導している。匿名の情報筋によれば、ペイジによる寄付金は2,000万ドルを超えているという。

 

『ビジネス・インサイダー』によればペイジの麻痺した声帯は橋本甲状腺炎と呼ばれる自己免疫疾患によって引き起こされる病気であり、また四半期決算発表など業績発表などではペイジはささやくような声しか出せなかったという。

 

2014年11月、ペイジの家族財団であるカール・ビクター・ペイジ記念財団は、2013年末に10億ドルを超える資産を保有していたとされ、西アフリカでのエボラウイルス流行に対する取り組み支援のために1,500万ドル寄付したと発表した。