エリック・ホッファー / Eric Hoffer
インディペンデント・スピリッツ

概要
生年月日 | 1898年7月25日 |
死没月日 | 1983年5月21日 |
職業 | 著述家、港湾労働者 |
国籍 | アメリカ |
賞 | 大統領自由勲章 |

エリック・ホッファー(1902年7月25日-1983年5月21日)はアメリカのモラリスト、社会哲学者、港湾労働者。
生涯、社会の底辺に身を置き、働きながら読書と思索を続け、独自の思想を築き上げた。そのため「沖仲仕の哲学者」として知られている。
生涯に10冊の本を出版し、1983年2月に大統領自由勲章を受賞。1951年に出版された『大衆運動』は、社会科学の古典とみなされ、アカデミズムとインディーズの両方から称賛された。しかし、ホッファー自身にとってベスト自著は1963年に出版された『変化という試練』だという。日本で最もよく知られているの自伝的なエッセイ本である『波止場日記』や思索をまとめた『エリック・ホッファーの人間とは何か』、そして名言集の『魂の錬金術』。
2001年には、エリック・ホッファー財団によってエリック・ホッファー賞が設立。“インディペンデント・スピリッツ”を持った優れた自費出版を積極的に評価し、250ドルの奨励金を交付している。哲学者のアンナ・ハーレントと親交もあった。
略歴

エリック・ホッファーは1902年、ニューヨークのブロンクスで父クヌートと母エルザとのあいだに生まれた。
ホッファーの両親はドイツ領だったときのフランス、アルザスからの移民だったといわれる。5歳までにホッファーは英語と両親の母国語であるドイツ語を読むことができた。
また5歳のとき、母がホッファーを抱いたまま階段から転落。それが原因でのちにホッファーは7歳で失明することになる。「失明前の2年間、母と私は階段から落ち、それが原因で彼女は回復することなく死に、私は視力を失った」と回顧している。
母の死後、ホッファーはドイツ移民で両親と一緒にやってきて、家政婦として暮らしていたマーサ・バウアーに育てられることになる。15歳のときにホッファーの視力は奇跡的に回復する。しかし再び失明することにおそれて、そのころから本をむさぼるように読み始めた。再び失明することはなかったものの、その頃の読書の習慣はずっと続くことになった。
ホッファーが若いときに父クヌートも亡くなった。父親が加入していた高級家具師組合はクヌート・ホッファーの葬儀費を建て替え、またホッファーに300ドルの保険金を給付した。ホッファーそのお金でニューヨークからバスでロサンゼルスへ移動することを決めた。ロサンゼルスに移動した後の10年間は、スキッド・ロウ(貧民窟)で過ごすことにし、当時は本を読んだり、ときどきモノを書いたり、日雇い仕事をしていた。
1931年に、ホッファーはシュウ酸を飲んで自殺を試みるも未遂に終わる。しかし、自殺未遂を機にスキッド・ロウを去り、出稼ぎ労働者となり、カリフォルニアで刈り入れ仕事に従事する。余暇は図書館で本を借りたり、売春宿の間を行き来して過ごしていた。ほかに山で砂金掘りの仕事もした。また冬の時期、雪で仕事ができないときはミシェル・ド・モンテーニュの「エセー」を精読していた。モンテーニュはホッファーに多大な影響を与えており、彼はよくモンテーニュについて言及している。
ホッファーは『Four Years in Young Hank's Life』と『Chance and Mr. Kunze』という小説(未発表)を書いていたが、それは自叙伝に近いものだった。また連邦政府のワークキャンプの経験に基づいた記事『Tramps and Pioneers.』 を書いている。これらの本や記事は出版されることはなかったものの、有名になったあとに『ハーパーズ·マガジン』誌上でダイジェスト版が掲載されている。
第二次世界大戦が勃発すると40歳のときに兵役に就こうとするものの、ヘルニアを患わらっていたため入隊を拒否される。代わりにホッファーはサンフランシスコの波止場で港湾作業員として働くことにする。また同時期に本格的に文章を書き始めた。1967年に波止場を去り、1970年定年生活に入る。1970年にホッファーは、カリフォルニア大学バークレー校の学生、教職員、スタッフ、リリー・ファビリアたちとエリック・ホッファーエッセイ賞を設立する。
ホッファー自身は無神論者だったものの独自の宗教的なビジョンを有しており、またその宗教的なビジョンを「生の力」と説明していた。
1983年に80才でサンフランシスコの自宅で死去。
作品解説
略年譜
■1902年
7月25日、ニューヨークのブロンクスにドイツ系移民の子として生まれる。父は家具職人。
■1909年
母と死別。7歳のとき突然視力を失い、15歳まで失明状態。就学年齢に達したが、学校へは一切通わず過ごす。
■1920年
父と死別。また、第一次大戦後これまでの養母のマーサ・バウアーはドイツ移住する。
4月、ロサンゼルスにわたり、10年間、さまざまな職を転々とする。
■1930年
蓄えがなくなるまで1年間、働かず過ごす。旧約聖書を精読。自殺未遂。ロサンゼルスを離れ、以後10年間、季節労働者としてカリフォルニア州各地を渡り歩き、探鉱者としても働く。
■1934年
エル・セントロの季節労働者キャンプに4週間滞在。
■1936年
1月から6月にかけてエンドウ豆の収穫に従事。冬、モンテーニュの『エセー』に出会う。
■1941年
サンフランシスコに居を定め、港湾労働者となる。この年、雑誌『コモン・グラウンド』へ何度か投稿。同誌の編集者マーガレット・アンダーソンの知遇を得る。
■1951年
リリー・ファビリと出会う。
「The True Believer:Thoughts on the Nature of Mass Movements」 (New York: Harper & Brothers)刊行。邦訳、高根正昭訳『大衆』(紀伊国屋書店、1961年、69年『大衆運動』と改題)刊行。
■1955年
「The Passionate State of Mind and Other Aphorisms 」(New York Harper & Brothers)刊行。邦訳、永井陽之助訳『情熱的な精神状態』、『政治的人間』(平凡社、1968年)所収。中本義彦訳『情熱的な精神状態』、『魂の錬金術』(作品社、2003年)所収。
ハンナ・アーレントと知り合う。
■1963年
「The Ordeal of Change」(New York:Harper & Row)刊行。邦訳、田崎淑子・露木栄子訳『変化という試練』(大和書房、1965年)。
■1964年
カリフォルニア大学バークレー校で政治学を講じる。(72年まで)。5月、これまでの活動に対して全米芸術院より賞金を授与される。
■1967年
「The Temper of Our Time」(New York:Harper & Row)刊行。邦訳、柄谷行人・柄谷真佐子訳『現代という時代の気質』(晶文社、1972年)。沖仲仕の仕事を引退。9月、CBSニューススペシャル「Eric Hoffer:Passionate State of
Mind」が放送される。ジョンソン大統領の招待でホワイトハウスを訪れる。この年、全米でホッファー・ブームが巻き起こる。
■1969年
「Working and Thinking on the Waterfront:A journal,June 1958-May 1959」(New York:Harper & Row)刊行。邦訳、田中淳訳『波止場日記』(みすず書房、1971年)。
■1971年
「First Things,Last Things」(New York:Harper & Row)刊行。邦訳、田中淳訳『初めのこと今のこと』(河出書房新社、1972年)。
■1973年
「Reflections on the Human Condition」(New York:Harper & Row)刊行。邦訳、中本義彦訳『人間の条件について』、「魂の錬金術」所収。
■1974年
7月、シーラ・K・ジョンソンによるインタビュー「72歳のエリック・ホッファー」が『サンフランシスコ・クロニクル』に掲載される。
■1976年
「In Our Time」(New York:Harper & Row)刊行。
■1977年
PBCでホッファーのドキュメント番組「Eric Hoffer:The Crowded Life」が放映される。
■1979年
「Before the Sabbath」(New York:Harper & Row)刊行。邦訳、中本義彦訳『安息日の前に』(作品社、2004年)。
■1982年
自選集 「Between the Devil and the Dragon:The Best Essays and Aphorisms of Eric Hoffer」(New York:Harper & Row)刊行。
■1983年
5月21日死去(80歳)。アメリカ大統領自由勲章受章。自伝Truth Imagined(New York:Harper & Row)刊行。邦訳、中本義彦訳『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』(作品社、2002年)。